『KOTOKO』
監督 塚本晋也


 精神病患者が人権無視の過酷な入院生活に耐えるために自ら作った逃込先というような意味合いの題名を持つイタリア映画『ふたつめの影』['00](シルヴァーノ・アゴスティ監督)を前日に観たばかりだったが、そういう意味では、本作のほうがよほど「ふたつめの影」というタイトルがふさわしく、何とも強烈で怖い映画だった。

 こういう作品を観ると、シングルだからということ以上に、そもそも母親になることが適していないように思われる女性がいることを強く意識させられたような気になる。幼児と二人きりで暮らしていると、どうしようもなく不安と恐怖の自己強迫に苛まれ、妄想と自傷行為を繰り返してしまう女性が少なからずいるのが現代社会なのだろう。そのようなシングルマザーの琴子を演じているのがCoccoだけあって、折々に只ならぬ感受性そのものの強さを窺わせるものだから、まるでその感受性が仇になっているように感じられるところが切ない。そして、現代という時代は善きにつけ悪しきにつけ、老若男女問わず明らかに感受性を肥大させる社会になっているような気がする。

 琴子の場合、虐待に至る前に養育能力なしとされ、引き離し措置をされて沖縄の実家の姉たちに長男大二郎が引き取られたわけだが、そうでなければ恐らく重大な出来事に至ったことが偲ばれたのは、繰り返される琴子の自傷と妄想に半端ではない迫真性があったからで、ただもう圧倒された。

 よもや“掃き溜めに鶴”をもじったわけでもなかろうが、芥川ならぬ鶴川賞を受賞した作家田中(塚本晋也)との関わりが印象深いのだが、物語からの彼の退場の仕方からすると、二人の関わり自体が琴子の妄想だった気がしないでもないところがミソだったように思う。もしかすると、息子大二郎の存在さえも妄想だったのかもしれないということだ。

 すなわち最後に青の炎でも青い鳥でもなく、“青い折鶴”を残していった小学生と思しき大二郎は、果たして実在していたのかということだ。もしかすると、更生を認められて息子を引き取ったことが、本当は取り返しのつかない結果をもたらしていたのではないかとの思いが拭えないような気がした。田中の物語からの退場の仕方がそのような触発を促してきたのだが、それは、大人の姿の田中が琴子からのひどい暴力に晒されながらも、大丈夫だ、大丈夫だと琴子に縋り付き慕ってくる姿に、およそ大人の男女の性倒錯の匂いがなく、むしろ母子関係を偲ばせ、更には田中を虐待する自身に苦しむ姿を琴子が見せていたからだろう。

 それにしても、凄まじいまでのCoccoの熱演だった。原案自体が彼女のもののようだから、自身の経験が投影されているに違いない。そのように考えると、さらに怖いものがあるのだが、そのように解するのはいささか気分的にしんどいので、おそらく最後の大二郎少年の訪問と青い折鶴に対しては、妄想ではなく実際の訪問と息子からの慰藉を受け取る向きが多いような気がする。そして、おそらくは作り手もそのことを見越して制作していたのではなかろうか。なかなか怖い作品だ。
by ヤマ

'12.10.28. アートゾーン藁工倉庫 蛸蔵



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>