『アーティスト』(The Artist)
監督 ミシェル・アザナヴィシウス


 当然のことながら、映画の全てがサイレント作品だった時代には“サイレント映画”などという言葉はなく、その言葉が誕生するのは、紛れもなく“非サイレント映画”が登場してきてからということになる。本作は、まさしくそういう意味でのサイレント映画であって、音声のない作品などでは決してない。むしろ、非サイレントの時代以降なればこそ持ち得る視点に溢れていて、非常に知的で刺激的なサイレント作品だったような気がする。

 それでいて、博覧強記的な頭でっかちの作品ではなく、機知とユーモア、そして、情感に溢れていたから、最後に「カット!」に続いて映画監督(ジョン・グッドマン)からの「パーフェクト!」となったときに、時代の変化に抵抗してケータイを持つまいとしている僕がつい「僕もケータイを持つことにしてみてもいいかなぁ」と思わされたのだろう。

 それだけの力を持っていたことには感心したけれども、それで「よし!ケータイを持つことにしよう」とまではならなかったから、そこまでと言えば、そこまでのものだったとも言える。でも、台詞に頼れないがゆえに画面で見せる力が試されてくることから、映画的には却って充実してくる部分を堪能できて、大いに満足した。

 とりわけ、ペピー・ミラー(ベレニス・ベジョ)がジョージ・ヴァレンティン(ジャン・デュジャルダン)のジャケットの片袖に自分の手を通して戯れるシーンの手の動きとか、伴奏音楽ではない効果音が響きわたり始めるコップの音から始まる夢のシーン、あるいは、自ら火を点けながらも唯一抱きしめ守ろうとしたフィルムが、自身が初めて製作監督を務めた唯一の作品『愛の涙』ではなかったシーンとか、いいシーンがふんだんにあって、サイレント映画にしては破格とも思える100分を超えているにもかかわらず、少しも観飽きることがなかった。

 1927年から数えて、わずか五年の間の話だったのに、えらく時間が経過しているような扱いが少し奇異に映りはしたが、人気稼業で変遷の激しい業界ではあるし、とりわけサイレントからトーキーへ移行した時代だったから、分からぬでもないようには思った。日本でも、サイレント時代の大スターだった坂東妻三郎が、そのイメージに似つかわしくない声を無理に喉を潰して変えたという話を聞いたことがあり、そんなことを思い出したりもした。ジョージは、ダグラス・フェアバンクスをモデルにしているように思っていたら、最後にタップを始めたので意表を突かれた。思えば、フレッド・アステアもあの頃のスターだったような気がする。そして、ペピーを演じたベレニス・ベジョには、先ごろ亡くなったばかりの淡島千景を彷彿させるようなところがあった。

 冒頭の電気ショックの拷問に掛けられても決して喋ることのない諜報員を演じていたジョージがスクリーンで喋ることを拒んだために、艱難辛苦に見舞われる作品だったわけだが、没落凋落による悲哀を全身に浴びてフィルムを燃やそうとして死にかけたことはあっても、自ら求めてまで死のうとはしていなかった彼が、遂にピストルに手を伸ばすことになる契機が、競売で「全てきれいに売れましたね」との賛辞を得たことさえもが自分の知らないなかで起こったペピーによる買い支えだったという現実だったことに納得感があった。死を巡るこの二つの対照のなかには大きな違いがあるような気がする。むろんペピーに悪意はなく、むしろ良かれと思ってのことだったはずなのだが、ジョージが見舞われたであろう屈辱感の深さは想像に難くない。その後の顛末の「バーン!」の字幕の後がお約束のショットなのが嬉しく、サイレント作品は、こうでなくっちゃと快哉をあげた。さまざまな愛情に溢れた、とてもいい作品だ。



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by ヤマ

'12. 4.14. TOHOシネマズ1



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