高知のオフシアターベストテン上映会2012

日本映画第1位選出
 『その街のこども 劇場版』
監督 井上剛
外国映画第1位選出
 『メアリー&マックス』(Mary And Max)
監督 アダム・エリオット
プラスワン上映
 『エリックを探して』(Looking for Eric)
監督 ケン・ローチ
講演:「映画の楽しみ方」 朝日新聞長谷川千尋記者

 昨年一年間の高知でオフシアター上映された157本(日本映画84本、外国映画73本)を対象に選出されたベストワン作品2本の再上映とプラスワンとして1本上映される3本立てのプログラムで、昨年観逃していた『その街のこども 劇場版』とともに、『エリックを探して』を観ることができた。また、六年ぶりに長谷川記者とも再会し、懇親会を楽しむことができた。3本併せると期せずして、絆とか繋がりをテーマにした作品上映となり、いかにも2011年の総括に相応しいプログラムになっていたように思う。


 チラシに「人生なんて 意外に小さな勇気でかわるもの」との惹句が添えられていた『エリックを探して』では、何と言っても全員でカントナのマスクをかぶってヤクザ者の豪邸にバスを連ねて殴り込みをかけた郵便配達仲間たちが、とても素敵だった。グローバリズムの名のもとにアメリカ主導の強欲資本主義が世界を席巻し始めるなかで、中産階層をそれなりに蓄えていたはずの国々でも格差社会化が進展するとともに、労働組合というものが殆ど解体され、なにもかにもが自己責任と競争原理というところに追いやられることが臆面もなく是とされる分断の風潮が蔓延してきているように感じられる。そんななかで、労働者にとって、いちばん必要で頼りになるものが何であるのかというケン・ローチにおける原点回帰のような作品だったような気がする。

 カントナの言葉として表出されていた“最も高貴な復讐”というものを見事に果たしていたリリー(ステファニー・ビショップ)の人物像が素晴らしく、赦しというものの高貴さを高嶺に祭り上げることなく体現していたことに心打たれた。現実感から言えば、ややファンタジー色が強すぎるということになるのかもしれないが、作り手は百も承知だからこそ、さらなるファンタジー色を最後の場面に盛り込んでいたのだろう。エリック・ビショップ(スティーヴ・エヴェッツ)の元にしばしば現れるエリック・カントナ(本人)をバスでの襲撃作戦終了の場面でも登場させ、パブにたむろする配達員仲間とも旧知の間柄の存在であることを示すに至っては、もはやエリック・ビショップの大麻吸引による幻覚幻視では済まなくなる。そして、カントナの言葉として示された“赦し”と同列の高貴さに“仲間で助け合うことの麗しさ”を置いているように感じた。

 独りではない。孤独なんかじゃない。人には必ず繋がり合える、或いは繋がりが断ち切れたりはしない掛け替えのない存在というものがあるわけで、併映された『その街のこども 劇場版』の大村美夏(佐藤江梨子)の被災した親友のように生死が分かたれていても、或いは『メアリー&マックス』のようにオーストラリアとニューヨークに離れていて一度も会ったことがなくても、そのことが決定的になったりはしないものだ。時間の経過さえも決定的なことではないことが『その街のこども 劇場版』や『メアリー&マックス』で示されていた。そして、コミュニケーション力に長けている必要もないことが描かれていたような気がする。


 とりわけ昨年観た『メアリー&マックスでは、マックスがコミュニケーション力に難のあることが特徴とされているアスペルガー症候群の男だったことが、とても印象深かった覚えがある。人がその生において得られる最も基本的で強い喜びとは“自分が重要人物であることの手応え”に他ならず、人が富みや名声、権力、社会的地位などを求めたがるのも、所詮はそれを外形的に担保してくれそうに感じられるものだからに過ぎないような気がしている。だからこそ、それらを得たものの本末転倒してしまっていて、人物としての自分よりも、持てる属性のほうに他者の目が集中することの虚しさに囚われ苦しむ成功者が、少なからず現れるのだろう。

 そういう点では、マックスがメアリーに最後に伝えていたものがいかに雄弁だったかということにおいて、おそらくメアリーのみならず観客も含めて、自分の存在が非常に重要だったことをこれほどのインパクトで伝えてもらう経験をしたことはないはずで、メアリーの著作が高く評価されて名声を得たとき以上のものがあったことが鮮やかに示されていて、感動的だった。コミュニケーション力の眼目が“伝える”ことなればこそ、マックスにまさるコミュニケーション力をメアリーに対して発揮した人物は居なかったことを描き出していたわけだ。

 そして、このハイライトシーンを構えた作り手自身がアスペルガー症候群だというところには、出来すぎた話では済ませられない含蓄があるような気がしている。もしかすると、アスペルガー症候群にはコミュニケーション力に難があるとされていることへの異議申し立てがあるのかもしれない。


 阪神・淡路大震災の被災後十五年を経て成人している“その街(神戸)のこども”たちのなかで、今なおというより今なればこそ浮上してきている心の傷といったものを炙り出しているように感じられた『その街のこども 劇場版』では、夜通し徒歩で復興の成った今の三宮から御影の間を往復する二人の“十五年前のこども”の取り出し方が素晴らしかった。二人とも十年以上前に被災地を離れて暮らし、震災でも直接的な被害を受けていないどころか、中田勇治(森山未來)においては震災によって父親が大儲けをしたおかげで不自由なく育ったという負い目を抱えているわけで、かようなこどもたちにおいて深く負っている傷というものを描き出しつつ、それを人生の陰影として、むしろ生きてきた時間の掛け替えのなさの証として炙り出しているように感じられる視座に、大いに感銘を受けた。

 そして、震災当時は、そのおかげで宿題を済ませてないことが不問にされたり、休校になって嬉しかったというような記憶を残している“その街のこども”を観ながら、昨年の東日本大震災の被災地を映し出す報道番組で、避難所でのこどもたちの明るさに救われ勇気づけられるといったコメントを寄せていた被災者のことを思い出しつつ、あの生命力に溢れる逞しさを印象づけていたこどもたちも、やはり“その街のこども”に他ならないことを思わずにはいられなかった。

 また、震災当時に中学一年生だったとの美夏が嗚咽とともに漏らしていた親友の死に対する想いが、生き残った者の心が囚われる、自分が生き延びていることへの“申し訳なさ”や“いたたまれなさ”といった、心の傷の現れようの不合理なまでの痛ましさが、深く印象に残った覚えがあると記したことのある父と暮せばでの美津江の想いと全く同じものとして描かれていたことも印象深い。



*『エリックを探して』
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/archives/1486
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1647591452&owner_id=3700229
推薦テクスト:「Banana Fish's Room」より
http://blog.goo.ne.jp/franny0330/e/64f84d7bf76473c6a87542013895b110
by ヤマ

'12. 4.29. 美術館ホール



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