『ふたたび swing me again』
監督 塩屋 俊

 映画のなかで女性オーナーの姿ともども登場した、三宮の“神戸 JAZZ LIVE &レストラン ソネ”は、僕も '93年6月にライブのひとときを楽しんだことが一度ある場所で、もう二十年近くも前になるのかと妙に感慨深かった。帰宅後、歴年のライブ鑑賞資料を保管してあるクリアファイルを当たってみると、当時のミュージックチャージは、なんと500円だった。食事代がどの程度だったかは領収書もなく不明だが、歳月の重みが重要な意味合いを持っている本作での五十年には及ばずとも、僕自身の月日の流れに対するささやかな感傷を誘われた。そのせいかもしれないが、甘々のズタズタ脚本なのに、音楽であれ、血縁であれ、歳月を超えて結ばれ解けない絆というものに対する作り手の思いが伝わってくるところがあって、アンビバレントな不思議な感じが奇妙な後味を残してくれたような気がする。何がそんなふうに作用したのだろうと振り返ったおかげで、僕は自分で思っている以上に、実は音楽好きなのかもしれないなどと思った。

 しかし、考えてみれば、映画は筋立てがすべてではないし、きっちりと辻褄の合っている端正さに価値があるものではない。また、類型的な演出や場面提示自体が忌避されているものでもない。そんななかで「それにしたって限度がある」と感じる“限度”というのは、何によって定まってくるのだろう。ある種の標準というものがあって決まるのではなく、総体的なバランスのなかで決まってくるのだろうとは思うが、“筋立てを備えた動きのある視覚的表現”という点で演劇と比較すると、ストレートプレイにおいては、映画が演劇よりも随分とリアリズムの側に寄っているような気がする。役柄の年齢と役者の実年齢の関係を不問にできる度合いというものを考えると一目瞭然なのだが、演劇は映画よりも遥かに自由だ。筋立てにしてもそうで、演劇においては、現実的でないとかリアリティがないといったことが不問にされる場合のほうが、むしろ多いような気がする。そもそも舞台空間そのものが、映画のセットとは比較にならないくらい見立てや象徴性に拠っていて、リアリズムから解放されている。されば、本作が映画の“リアリズムへの囚われ”から解放された野心的な秀作として映るのかと言えば、決してそうではないところが興味深い。やはり甘々のズタズタ脚本で、原作者自身の手によるものだから已む無くといった風情さえ漂う代物だったとの印象が変わるものではない。

 また、久しぶりに観た渡辺貞夫の見違えるような品のよさげな姿にも驚いた。学生時分に東京で聴いていた頃も明るく楽しい感じは強かったのだが、どちらかというと、品のよさとは遠いところにいる感じだっただけに、これまた歳月というものを僕に感じさせてくれたような気がする。加えて、エンドロールにクレジットされていた製作者名のGAGAのところに、思いがけない名前を見つけて驚いた。十五年前の拙著刊行の際に読者として手紙をくれたのが縁で、大阪のシネ・ヌーヴォでの懇親会に案内したことのある女子大生の名だった。そのときGAGAに就職が決まったと話していた彼女の名をネット検索してみたら、今や執行役員になっていた。彼女が注目した作品の字幕も付いてないビデオを送ってきて、どう思うかと問われながらも、映画をビデオで観る習慣がなく外国語を解せない気後れから放置して以来、音信普通になっていることを思い出し、その後も買い付けで自歩を固めて執行役員にまで至っている彼女の歳月に幾許かの思いを馳せた。

 ハンセン病を扱った映画ということでは、9年前に観た小島の春('40)とは随分と作品のつくりが違うなかで、この問題についての足がかりになる部分は、差別問題、国家賠償、韓国、キリスト者のことも含めて、ほぼ網羅的に盛り込まれていたことに少々感心もした。


by ヤマ

'01. 4.26. あたご劇場



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