『闇の列車、光の旅』(Sin Nombre)
監督 キャリー・ジョージ・フクナガ


 なんだかヒリヒリするような映画だった。父親と叔父との三人でアメリカに向かっていた旅路にて晒されていた命懸けの危険な緊迫感に尋常ならざるものが宿っていたのは、歴然と命を狙われていたウィリー/カスペル(エドガー・フロレス)の逃避行との併行ゆえだったのかもしれないが、さればこそ効果的だったと言えるように思う。

 それにしても、そんな危険な旅路についていたさなかなのに、愚かな娘サイラ(パウリーナ・ガイタン)は何ゆえ二人に黙ったまま、ガスペルを追って中途で列車を降りてしまうのだろう。恋の熱情というだけでは余りにも身勝手な気がしたが、約束された希望など何一つない状況に置かれていればこそ、刹那のときめきや輝きに全てを投げ出しやすくはなるのかもしれない。もっとも彼女がカスペルを追って降りなければ転がらない話にしてるのだから、仕方ないと言えば仕方のないことだと思わぬでもない。

 彼女が家族に黙って下車しなくても、父親は憂き目にあったのかもしれないが、少なくともあの展開にしておいて最後は二人でめでたしめでたしということには出来なかろうから、予定どおりの結末ということにはなるのだろう。苦難の果てに目的地に辿り着いたサイラが公衆電話から、父に教わった908−555−0187(だったかな?)のナンバーをプッシュして繋がっても、僕のやりきれない気分はそのままだった。

 それでも懲りずに再挑戦していると思しきサイラの叔父の姿の逞しさに、勇気と力強さを受け取るか、救われない状況の過酷さを受け取るかで随分と観後感が違ってくるようには思った。演出的には、へこたれなさだったような気がするけれど、そうも単純に受け止められなかったのは、やはり血の掟で縛り合うことでしか繋がっていないギャング団の凄惨さが、どうにも気分の悪いものとして残っていたからだろう。年端もいかない子供を交えた彼らを生み出すのも、過酷な不法移民の旅を生み出すのも共に、明日の生活への希望が抱けない貧困の酷さゆえだったことが重く響いてきた。

 サイラたちが見限ったホンジュラスのテグシガルパというのは確か首都だったはずだし、メキシコの貧困状況にしても相当なものだったから、いつの時代の話なのかと思いながら観ていたら、ボスを殺して逃亡するカスペルに跡目を継いだソルが携帯メールで脅しをかけていたから、まさに今現在のメキシコのスラム街であり、ギャング団だということが判った。幼い子供による暴力組織の惨状が強烈だったシティ・オブ・ゴッドも強い印象を残しているが、映画世界としては今現在の話ではなく回想談だったから、少し緩和されるところがあるのだけれど、本作にはその余地がない。こういう作品を観ると、日本も格差が酷くなってきて貧困化が進み、社会が荒んできている感じがあるけれども、ここまで治安が悪くはなっていないのは救いだと妙な安堵を覚える一方で、格差社会を進展させて希望なき貧困層を増やし続けていくと、他人事ではない時代がやってくるのかもしれないと怖くなる。

 八年前に『シティ・オブ・ゴッド』を観たときには、そのような延長線を日本社会に想起するまでには至らなかったのに、それだけ社会的に多くの貧困層が作り出されていると感じるようになってきているのだろう。サイラの叔父のような形のへこたれなさを発揮しなければならない事態は何としてでも避けなければならない。野蛮な“弱肉強食”を「頑張った者が報われる」などという言葉で偽装してはならないと改めて思った。



推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1533250077&owner_id=3700229
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/hotondo_ke/archives/168
推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/2aa0817c919380a173ab4b753367c9a9
by ヤマ

'11. 4.11. あたご劇場



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