『小島の春』('40)
監督 豊田四郎


 よくぞ掘り起こしてくるといつも感心する「小夏の映画会」の今回の上映作品は、昭和十五年のキネ旬ベストテン第1位の作品だそうだ。なんと62年前、太平洋戦争に突入する前年、大政翼賛会の結成された年の映画だということになる。1996年に90年の永きに渡って続いてきたハンセン病患者の隔離政策を規定した「らい予防法」が廃止されたが、この作品は、画期的な治療薬だったという「プロミン」の国内での使用が始まる6年前の映画で、岡山県の長島愛生園という国立療養所に勤務していた女医の手記が原作となる映画だとのこと。隔離政策を患者のためにもよいことと信じ、各地を回って隠れている患者を説得し、療養所への入所を促すことに誠実に取り組んでいる姿が描かれていた。

 驚いたのは、当日会場で配布もしていた2001年版の県の作った啓発用リーフレットの見開きにある「ハンセン病とは…」に続く最初の項目が未だに「遺伝病ではありません。」となっていることだった。62年前の戦前の映画のなかでも主人公の女医小山先生(夏川静江)が村人に遺伝病ではないことを教えていて、伝染病だから隔離治療が必要なのだと説いていた。そして、偏見や差別から彼らを守り、患者を抱えた家族を助けるためにも隔離が必要だと篤実に訴え掛けていた。当時の社会では、患者の存在自体がタブー視されていたのだろうから、不幸なる患者やその家族に目を向けて彼らのために健気に働く女医の姿は、美しく立派なものとして描かれており、それが人々の感動を誘ったのであろう。それはそれで仕方のない事情なのかもしれない。しかし、今では伝染病と言っても、極めて感染力の弱い病気だということが知られているし、説得とは言っても同意しなければ、最終的には警察力を行使して強制執行できる枠組みのなかでの説得なのだ。背後にある強権力のことを映画も隠してはいなかったが、むしろ、そのように運命づけられ、自由選択の余地がないからこそ、自らの意思で療養所行きを選択できる心境に導いてやる説得が意義深いのだというスタンスだったように思う。

 それにしても、そのリーフレットによれば、WHOが隔離政策の見直しを提言してからのち、廃止までに45年の時を要し、「らい予防法」が廃止されて5年を経過してもなお、最初の項目が「遺伝病ではありません。」となっているのは、どういうことなのだろう。戦前の小山先生が説いて回っていたことさえ、今なお筆頭項目にしなければならないとは、情けないを通り越しているような気がする。政策として如何にないがしろにしてきていたかということでもある。


 この日には上映会に併せて、全国ハンセン病患者協議会元会長である高知県出身の曽我野一美氏の講演がセットされていたが、記憶に残る話が二つあった。ひとつは、映画を観ているときに僕の思ったことで、確かに隔離政策は人道的に理不尽なことではあったろうが、世間からも家族からも忌み嫌う視線を投げ掛けられ、孤独な幽閉を余儀なくされる状況からすれば、療養所への隔離自体は理不尽であっても、ある意味では同胞との出会いという形で罹病者の孤立が緩和されたのではないかと感じたことに関連するのだが、期せずして曽我野氏が、四十年来、不当な隔離生活とその処遇に対して国と闘ってきたけれども、患者協議会長を引いてのちに、とにもかくにも現在まで生き長らえられたのは、国の療養所に入れられていたお陰だとも思うようになったと語っていたことであった。あのまま地元に残っていて、果たして今に至るまで生き延び得ただろうかという自問は、国家権力との闘争の渦中にあっては、自身の内なる声として向き合いようのなかったものだろう。そのことが直接的に孤独の問題を語っていたとは限らず、むしろ、人権は踏みにじられながらも生存だけは続けられる物質的環境を結果的に保証していたことになるというようなニュアンスのほうが強かったのだけれども、少なくとも全国の患者協議会の会長として闘争に携わることは、自分の家に独りでひっそりと身を隠していては適わなかったことだと思う。そのことは彼自身が身に泌みて感じているような気がした。

 もうひとつは、当日配布された作品紹介のチラシにもあった、僕も聞いたことのある「世界でハンセン氏病者を強制隔離させたのは日本だけだったという事実」という話が、曽我野氏の見学したタイや韓国、ハワイの事例では外国も似たり寄ったり、言葉や文化の違いを越えて癩患者に対する非人間的扱いには変わりがなかったとの報告と趣を異にする点だった。強制隔離を制度的に担保していたのが日本だけだったというのは事実なのかもしれない。しかし、それと同時に『小島の春』で描かれたように、検束権があるからといって、その行使にばかり明け暮れていたわけではないはずなのだ。かと言って、そのことが人道的だったことを意味するわけでもない。実際のところは、曽我野氏が実地に感じたという似たり寄ったりというのが妥当なところなのだろう。ところが、何らかの主張と要求を果そうとして相手を攻めるときには、虚偽にはならない論拠を最大限に研ぎ澄ませて、実際のところのニュアンスとは異なる色合いを帯びさせる形での武装化を促してしまう。近年、関心を集めつつあるメディア・リテラシーというものも、このあたりの武装化と実際のところを嗅ぎ分け認知する想像力と情報バイパスの獲得の大切さを訴えているのだろう。

 ところが、同じ講演を聞いたはずなのに、地元新聞の翌日の記事を読むと、報道側が想定している読者に対して、あくまで「報道」のために、曽我野氏の話を再構成して、判りやすくも深みも奥行もない平板な事実化を職業的に選択していることがよく判って面白かった。しかし、現実問題として会社組織の商業新聞の夕刊記事で、仮に僕が記憶に残ったと記した二つの部分のみを切り取って報じたとしたら、これまた曽我野氏の本意とは掛け離れたものになってしまいかねない。

 彼の心中において、国の隔離政策のお陰でこれまで生きてこられたとの感謝の念が、現時点での思いの100%では決してないことは、昨年五月、全面勝訴の判決を得たと報じられていたハンセン病国家賠償訴訟の全国原告団協議会会長をその後、務めていることからも明らかだし、日本だけが特異な形でハンセン病者を不当に扱ってきたという印象を与えかねない「強制隔離は日本だけという事実」のもたらすインパクトを損ねるような“実際のところ”を彼が伝えたいのは、商業新聞の一般読者ではなく、彼の講演に脚を運ぶ程度に関心と問題意識を備えている人々に対してなのであって、かの“事実”を掲げて共闘の側に立ってくれているような人の発言に水を差す意図など、おそらくはどこにもないだろうからだ。

 そして、何とも悩ましいのは、たまたま僕が実際に記者の取材した現場での講演にも立ち会っているからこそ、このようなことを考え得るのであって、「報道」された記事だけをもって何を読み取り得るのかを考えると、改めてメディア・リテラシーなるものの獲得の困難さを思わずにはいられないということだ。
by ヤマ

'02.11. 4. 平和資料館・草の家



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