“ポルトガル映画祭”「パウロ・ブランコと90年代ポルトガル映画」


『ここより遠く』93 監督 ジョアン・ゲーラ
『世界の終わり/四元素シリーズ第1 話「土」』92 監督 ジョアン・マリオ・グリロ
『僕の誕生日/四元素シリーズ第2 話「空気」』91 監督 ジョアン・ボテリョ
『二十歳の試練/四元素シリーズ第3 話「火」』92 監督 ジョアキン・ピント
『ラスト・ダイビング/四元素シリーズ第4 話「水」』92 監督 ジョアン・セーザル・モンテイロ
『骨』97 監督 ペドロ・コスタ
『クレーヴの奥方』99 監督 マノエル・デ・オリヴェイラ
『トラフィコ』98                     監督 ジョアン・ボテリョ
『神の結婚』99                      監督 ジョアン・セーザル・モンテイロ

 個々の作品に対する満足度は、あまり高くはなかったのだが、映画というものを考え直す刺激を秘めたプログラムであった。初日の四元素シリーズは全て異なる監督の作品であるが、話を重ねるにつれ、実験性というよりは奔放さと感じさせる主題や話法の展開が顕著になり、第四話の『ラスト・ダイビング』に到っては、ほとんど呆れながら観るしかなかった。実験映画というには、あまりにきちんとした製作がなされているのに、個人映画や実験映画でないと滅多に見受けられないような奔放さに出くわすと、何か奇妙な感覚に包まれる。そして、映画って、本来もっともっと自由なものだったんだよなぁという感慨を覚えた。
 映画というものが比較的新しい表現媒体ではあっても、やはり、百年もの歴史のなかで蓄積された文法や様式といったものに、いつのまにか縛られているのだ。そういった部分に風穴を開けてくれるようなものとして実験映画や個人映画があっても、それらはどれも製作費の小ささを露呈する状況のなかでしか成立しないのが常だ。キドラット・タヒミックの映画やサミラ・マフマルバフの映画に新鮮な刺激は受けても、映像自体に本格的な光と色を感じることは難しい。それが作品としての善し悪しを決定するものではないにしても、実験映画や個人映画に通じる新鮮さをもたらしてくれる作品というのは、そうしたものだという思いがある。ところがパウロ・ブランコ製作の四元素シリーズは、撮影が実にしっかりしていて美しい。『ここより遠く』や『骨』には、そういった映像としての美しさは感じられなかったが、これらの6本の作品群を観ていると、日本のATG(アート・シアター・ギルド)の作品群を思い起こしたりもした。
 ハリウッドや香港、インドのように娯楽映画としての商業的基盤を産業として確立するには到らない状況のなかで、映画人たちが何をもってアイデンティティにしようとするかというと、やはりアートなのだろうと思う。そして、その際、必ず通るのがこういう作品群を生み出す過程であり、その意味で日本のATGは歴史的必然だったのかもしれないという感慨を抱いた。日本映画において功罪ともに大きな足跡を残しているATG映画だが、『骨』のような作品は、まさしく通底しているのではなかろうか。題材への眼の向け方もそうだし、友人の言を借りれば、「簡単に判られてたまるか」といった韜晦に満ちた語り口。チラシには「極度に省略された語り口と詩的かつ謎めいた映像」とあったが、そんな上等なものかしらという疑問が拭えない。例えば、家政婦ということを後で説明せずにはいられなくなるのなら、最初の職探しのときから明らかにすればいいのに、敢えてそうしないことや人物関係をことさらに判りにくくした構成など、いたずらに謎めかすことに観ていて必然性が感じられず、納得がいかない。ATG作品にもこういう傾向をよく見掛けたように思う。
 しかし、ポルトガルにこういうアフリカ移民のスラム街があることや彼らの生活の閉塞感は、ポルトガル映画でも他の作品では、そうお目に掛かるものではないのだろうと思う。そう言えば、『僕の誕生日』ではヨーロッパというよりは、中東映画で見慣れたようなアラブ系の顔だちが眼についた。サラセン帝国やグラナダ王国の支配下でイスラム文化の花開いた歴史があったと習ったことをまざまざと思い出させてくれる。
 ATG的な映画を続けて観て、いささか疲労してきたところで上映されたオリヴェイラ監督の『クレーヴの奥方』は、そういう意味では流石だと思わせる風格を備えていた。古典のなかにある伝統的精神の美と苦悩というものを現代を舞台に描いて、いささか時代錯誤的なものを感じさせつつも原作が古典であることで割り引かれる範囲内にとどめ得て、むしろある種の普遍性として、今の時代においても絶滅しているとは言えない心性の美について気づかせてくれるような格調を湛えていた。
 だが、何と言っても圧巻は、モンテイロ監督の『神の結婚』だった。ブニュエルの好きな僕が初めて自身の内からの素直な感想として、彼の最も正当な後継者だという思いを抱くことができる作品に巡り会えたという気がした。前の日に観た、ファウストとメフィストフェレスの道行きを思わせる『ラスト・ダイビング』では、その奔放な飛躍ぶりとナンセンスな結合に半ば呆れながら観つつも、ブニュエルを想起するまでは到らなかったのだが、『神の結婚』では、キリスト教ないしは神への関心の寄せ方といい、ゲームに寄せる関心といい、ユーモアの感覚や強烈なアナキズムの香り、忌憚なき性への執着ぶりや寓意と風刺の豊穣さ、いずれを取ってみてもブニュエルに通じ、スタンスのありようが正当な後継者と感じさせるに足るだけのものを持っているように思った。


参照サイト:「高知県立美術館公式サイト」より
http://www2.net-kochi.gr.jp/~kenbunka/museum/portugal/blanco.htm

by ヤマ

'00. 7. 1.〜 7. 2. 県立美術館ホール



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