『ノルウェイの森』(Norwegian Wood)
監督 トラン・アン・ユン

 '60年代末的な若者の背伸び感がよく出ている感じはあったが、どうにも肌合いがしっくり来ない感じが強かったのは、『青いパパイヤの香り』['93]も『夏至』['00]も今一つピンと来なかったトラン・アン・ユン監督・脚本作品だからなのか、あるいは何故かこれまで縁がなくて一冊も読んだことのない村上春樹の原作世界が肌に合わないのか、よくは判らないが、本作を観るとベルトルッチのドリーマーズ['03]が同じ'60年代末を捉えて、如何に優れていたかが、改めて偲ばれるような気がした。

 もっとも、このいかにも生気に乏しく虚無的な若者たちの群像が僕にしっくりと来なかったのは、村上春樹やトラン・アン・ユンのせいばかりではなく、僕が身近な人の不慮の死というものに縁遠いからなのかもしれない。少なからぬ年月にわたって全国でこれだけ自殺者が増えてきているのに、僕は半世紀を越える人生のなかで、高校時分に隣のクラスの少年の自殺に遭遇しただけで、身近な人の自殺に縁がなく、また自分自身では自殺など、考えたことさえ一度もない。事故死にしても、中二の時の同級生が見舞われたくらいで、近親者には一人もいない。それでも、原作に当たってみると、映画では得られなかった感興を覚えることができるのだろうか。「え? これがノーベル文学賞候補と賞される作家の代表作の世界なの?」と驚かされたのが一番の収穫だった。

 ちょっと面白かったのは、今やもう死語に近くなっているような気のする“百人斬り”などという言葉を久しぶりに聞いたことだった。ワタナベ(松山ケンイチ)が寮の先輩の永沢(玉山鉄二)に、その噂は本当なのかと質した際に「いや、実際は70人くらいだよ」と答える場面があったが、この戦時報道の名残を偲ばせる“百人斬り”なるスローガンは、僕がハイティーンだった70年代当時にはまだ生きていて、実際に“性春の目標”として掲げていた友人もいた。だが、欧米には及ばぬまでもフラワーチルドレン的な性解放に向かおうとしていた時代的な背伸び感がイメージとしてある60年代に比べ、ちょうど“政治の季節”が、三無主義とも四無主義とも呼ばれる“シラケ世代”に反動化していたように、70年代の思春期青年の憧れの対象は、ヒッピー的にフリーなセックスよりも、かなりマッチョ色を帯びた『高校生無頼控』とか『俺の空』のような反動性を濃くした世界へと退行していたような気がする。

 僕自身は“シラケ世代”に属しながら、高校の新聞部や生徒会活動に耽っていたために、自分を“遅れてきた世代”のように感じていたが、シラケの虚無世代のなかで遅れてきた政治性をノンポリの旗印のもとに発揮しようとするなどという、言わば、時代の空気に対して異端的な場所にいるという感覚においては、『ノルウェイの森』に描かれていた政治の季節のさなかに“熱さ”の対極にある虚無を生きていた若者と僕の間には、ある意味、対角線的に通じるところがあったのかもしれない。確かに、もし僕が政治の季節の只中にハイティーンだったら、ワタナベや永沢と同じく、70年代の僕とは逆に新聞部も生徒会活動もやってなかった気がする。
 それなのに、僕がワタナベたちに共感を覚えるよりも肌合いがしっくり来ない感じを抱いたところが興味深い。同じ“時代の異端”ではあっても、虚無に向かうのか虚無に抗おうとするのかの方向性の違いには、まさに対角線と称するに相応しい反対性があるということなのだろう。

 また、言葉としては、ワタナベが口癖にしていた、何にでも「もちろん」と返す言葉遣いが「百人斬り」とともに耳に残っている。ITバブルの頃に“時代の寵児”ホリエモンこと堀江貴文が連発していた「想定内」に通じる“虚勢が習い性となっているような背伸び感”が宿っていて、なかなか秀逸だったと思う。



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/1012_1.html
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1641084264&owner_id=3700229
推薦テクスト:「シネマの孤独」より
http://sudara1120.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-3834.html
推薦テクスト:「なんきんさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1642554123&owner_id=4991935




参照テクスト村上春樹 著 『ねじまき鳥クロニクル』(新潮社 単行本)を読んで
by ヤマ

'10.12.14. TOHOシネマズ5



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