『母なる証明』(Mother)
監督 ポン・ジュノ


 凄い脚本だと思った。強烈な作品だ。人間という存在の哀しさと怖さを、善悪や是非を超えた深いところで捉えている。人生や人間というものが本質的にそういうものだという意識は、おそらく誰の心の中にもあるものなのだろうが、平凡な作り手には、このような物語構成は採れないだろうし、採ったとしても説得力を宿し得ない気がする。

 荒涼感の漂う萱の原を掻き分け歩み出た後、次第に強く響き始める太鼓の音とともに奇妙な踊りを始める老婦人の姿で始まるオープニングシーンを観て、僕は、先ごろ観たばかりのラブリーボーンに通じるイメージを喚起された。かの作品のスージーのような“死せる魂の彷徨い”ではなかったものの、このときの老婦人は“ほとんど生ける屍に近い魂の彷徨い”だったはずで、全編観終えると、そのことに思い及ばずにはいられない作品だった。

 映画の序盤で示された、刑事とチンピラと精神障害者の三人の幼馴染を巡る殺人事件という設えとそのキャラクター造形から、この作品はミスティック・リバーに触発された映画に違いないと思ったのだが、『ミスティック・リバー』が人の心の闇と人の生の不条理を描きながらも、主題が政治に向かって行ったことに対し、本作は徹底的に人間という存在の哀しさと怖さを追求していて、圧倒された。

 タイトルは確かに『母』だし、息子トジュン(ウォンビン)の無実を信じ、彼を救い出すために懸命になって真実を探ろうとする母親(キム・ヘジャ)の姿が描かれていたのだが、僕は、この作品が、邦題において示されていたような母性を描くことを主題にした作品のようには思えなかった。母性愛による盲信が取り上げられていたのは、それが金銭や権力欲などよりも遥かに原初的で身体的な、人間の属性そのものに深く繋がっている妄執であり、人を捉えて放さない“思い込みや囚われの深さと業”を示すものとして、最も雄弁に語ることができるからに過ぎないような気がした。

 つまり、母なるものにおける特性として炙り出しているのではなく、より普遍的な人間なるものに向かう視線のほうが強く感じられるように思ったわけだ。そのうえで効いていたのが、誰も彼もが影の部分を窺わせ、イノセントな存在など唯の一人も登場しない透徹した人間観の打ち出しだったように思う。

 漢方薬局を営んでいた母は、もぐりの鍼灸治療をして怪しい稼ぎに手を染めていたし、彼女に原料を卸している叔母は公務員の夫を持ちながら産地偽装を唆し、街のチンピラになっている幼馴染のジンテ(チン・グ)は自分が壊したベンツのミラーの弁償をトジュンになすりつけるばかりか母親に因縁をつけて金をたかる始末だし、ベンツの持ち主たる金持ちの大学教授は人身に係る当て逃げをしておきながら、己が被った物損ばかり主張していた。また、ジェムン刑事(ユン・ジェムン)は幼馴染の犯行自白に釈然としないものを感じながらも警察組織の一員としてそれ以上に踏み込もうとはしないし、トジュンの母からの依頼を受けた弁護士も誠実さとは掛け離れた俗物ぶりをいかんなく見せ、殺された女子高生アジュンには売春稼業という影があり、そのことを察していると思しき祖母は認知症を窺わせつつ孫娘に金をせびる。アジュンの携帯には無数の男たちが淫行の証拠写真を収録されていて、彼女を“米餅女子”と呼ぶ男子同校生はシンナー吸引に耽っていた。壊れ傘の代金としてトジュンの母から差し出された紙幣を一枚だけしか受け取らない相応感を保っていた廃物回収業の男さえも、空き家の不法占有を繰り返している様子であり、アジュンの携帯に写真を収録されていたりする。どこまでが罰せられるべき犯罪で、どこからが免罪されるべきことなのかの判定をつけにくいのだが、それらの行為以上に判別しがたいのが、そういった事ごとを重ねている人々の誰が犯罪者として罰せられるべき者なのか、ということだ。

 とりわけトジュンが精神障害者である様子を窺わせていた設定とアジュンの認知症者の祖母の配置が効いていて、何もかも承知のうえでのことなのか否かによって、同じ言動の意味が異なってくることや人間というものの怖さを感じさせるうえで強烈な効果をもたらしていたように思う。

 僕が最も怖さを感じたのは、トジュンが母親に向かって五歳のときに自分を殺そうとしたことがあったことを告げる場面だった。母親の受けた衝撃と動揺を鮮やかに印象づけたキム・ヘジャの演技も凄かったが、ウォンビンが体現していた不気味さには思わずぞっとした。そして、映画のなかで幾度か示されていた、バカという言葉を向けられたときに逆上してしまうトジュンの姿と比して、息子の窮地に逆上してしまう母親の姿にどれほどの差異があるのか、その心神喪失など、とても質せないような気がした。彼女の逆上のピークを示していたのが、アジュン殺害事件への息子の関与についての真実を知ったときだったように思う。

 ある種の異常性のもとに行なわれた犯罪責任というものは、それを問うべきではないものだとするならば、そもそも異常な凶悪犯罪を行なってしまうこと自体が、ある種の異常性のもとにあるのだから、ほぼ全ての凶悪犯罪に対して、人は犯罪責任を問えなくなるような気がしてくる。そのなかで、人が人に問うことを許されるべき責任能力というのは一体何なのか、また、そもそも人間にはそういった責任能力というもの自体が備わっているものなのかを、鋭く問い掛けてきているように思った。

 人間のなかの“思い込みや囚われの深さと業”なるものが人を犯罪に追い込む場面というのは、凶悪犯罪においても、最も数多くある事例のように思われるのだが、母性愛に限らず、それ自体が罪となるわけでは無論ない。だとしても、それを有していることこそが犯行を構成するうえで最も大きな位置を占めてしまうところが、人間の哀しさに他ならない気がした。

 そのようにして本作を振り返ってみて、登場人物たちの一体誰が、犯罪者として他の人々と区別され罰せられるべき存在なのかを問われると、少なくとも僕自身は答に窮してしまう。その人間性において最も下劣だと僕が感じたのは、女子高生アジュンを殺害した者でも、トジュンの母親でも、アジュンの携帯を米びつから取り出してニヤッと笑ったアジュンの祖母でもなくて、社会では犯罪者として制裁を受けるところから恐らく最も遠いところにいたであろう大学教授や弁護士たちであった。だからこそ、刑罰適用は、犯行に対して向けられるべきものであって、犯罪者に対して向けられるべきものではないとする他ないのだけれども、犯行に対して問うべき犯罪責任というものに対して意識を向けることなく“被害者感情”を盾に、ひたすら情緒的に犯罪者への制裁ないし報復のみを煽り立てる風潮が強くなっている気がしてならない。相も変わらず浅薄なメディアジャーナリズムが稼業として為せる業だ。

 被害の当事者がそのような感情に囚われるのは已む無きことだし、むしろ当然なのだが、本当に必要なのは、報復感情を昇華させるプログラムを講じることだという気がする。確かにそれは困難なことだし、制度的ケアには馴染まないものなのかもしれないが、その困難さを避けて被害者の報復感情に同調することが、言うところの“被害者救済”に繋がるとは、僕の人間観からは、どうしても思えないでいる。焼け跡で見つけた母の鍼ケースをこっそり拾って帰り母親に返したトジュンもその母親も、やはり世の中から抹殺されるべき存在なのだろうか。




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by ヤマ

'10. 3.12. あたご劇場



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