『戦場でワルツを』(Waltz With Bashir)
監督 アリ・フォルマン


 セルフ・ドキュメンタリーを軸としているのだから仕方がないのかもしれないが、“記憶”について語られた導入部で抱いた僕の期待感からは、少々外され感の残る作品だった。だが、戦場のなかにある非現実感というものがよく描かれていたように思う。絵柄とあまりにもマッチしない音楽の美しさが効果的に働いていたような気がする。

 忘れていても痕跡を残し、思い出しても“事実そのものとは異なる脚色”というものを避けがたいのが、記憶であるわけだが、そのなかにあって、あのワルツの場面のさまがどうだったのかは、記憶に残している者にとってはまさしく記憶の通りなのだろうし、実際の様子など問われても、撮影でもされてない限り、朧なものでしかない。それと同じく、遠い日の戦争体験そのものが、当事者達においてそうだったのだろう。善し悪しの問題とは異なるものだ。

 記憶として残っている情景というものは、あくまで記録とは異なるものなのだ。最後に映し出された実写映像が主張しているのは、そういうことだったのではないかという気がする。“記憶”をアニメーションで描き、“記録”を実写映像で映し出した対照が、実に鮮やかな効果をあげていた。

 それを思うと、裁判というものが記憶に基づく証言によって断じられることの危うさを思わずにはいられない。また、覚えていることの証明は、それが仮に事実と少々ずれていても、証言することで示すことが出来るけれども、隠しているのではなくて“忘れている”ということの証明は、不可能だ。これだけ衝撃度が強く、きっと忘れようにも忘れられないだろうと誰しもが思うようなことを現に忘れてしまっていたことを描き出した作品を観ると、尚更のこと、物証以外の記憶証言で断じることなど、何も出来ない気がしてくる。そして、証言よりは合理的な状況証拠のほうが、遥かに証拠力が高いようにさえ思えてくる。時効を廃止すると間違いなく冤罪が増えるはずだというのは、つまりは、そういうことなのだろう。

 それにしても、ファランヘ党というのが何ものかさえよく知らない者には、少々分かりにくい物語だった。英題『Waltz With Bashir』のBashirというのは、どうやらファランヘ党の若き指導者の名前のようだ。彼の暗殺がパレスチナ難民虐殺の契機となっていたように思うが、パレスチナと敵対するイスラエル軍は、それを利用し、加担したということだったようだ。バシールの死に翻弄されたレバノン内戦というような意味の込められたタイトルだったのかもしれない。



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/1003_1.html
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1364789709&owner_id=3700229
推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/9958f50509462532777fb4a8f2680382
by ヤマ

'10. 3.11. 美術館ホール



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