『サロゲート』(Surrogates)
『ミクロの決死圏』(Fantasic Voyage)['66]
監督 ジョナサン・モストウ
監督 リチャード・フライシャー


 連日の同じスクリーンで新旧のSF映画を観て思ったことだが、近年のSF映画は、必ずと言っていいほど、未来設定を借りて現代社会を風刺していたり、警鐘を鳴らしていたりするけれども、半世紀近く前の『ミクロの決死圏』は、純粋にサイエンス・フィクションの部分で以って映画化されていて、そのことが思いのほか新鮮だった。

 初見ではないのだが、スクリーン鑑賞するのは初めてだ。オープニングでもエンディングでも、医学関係者の監修への謝辞がクレジットされたが、抗体の機能やガス交換の仕組み、脳神経の伝達する電気的な信号を動きの伴う画像として映画に現出させたのは、初めてのことだったのだろう。

 また、体内世界を視覚化した映像感覚が、本作の二年後に現われた2001年 宇宙の旅を想起させるような幻想感があり、人体の内側世界をコスモスとして捉えることを一般化させたのは、この『ミクロの決死圏』という映画だったのではないかという気がした。

 物語そのものは至ってシンプルながら、マイケル博士(ドナルド・プレザンス)が施術断念による引き返しを画策して、グラント(スティーヴン・ボイド)たちの邪魔立てをしていた理由が思想的確信によるものか、閉所恐怖症による錯乱なのかも定かにならないまま終える中途半端さを残しながらも、かの有名な“涙腺からの帰還”という意表を突いたエンディングで唸らせ、煙に巻く有無を言わせない力技が見事だった。そして、娯楽映画の約束事のように登場していたラクエル・ウェルチの演じるグラマラスな女性乗組員コーラの存在と、彼女が、着衣のままとは言え、男たちの幾つもの手で身体中を揉みくちゃにされる場面の登場に、かつて映画という娯楽の市場ターゲットが今とは違って男性狙いだったことを改めて強く感じた。



 前夜に観た『サロゲート』も思った以上によく出来たオーソドックスな娯楽作品だった。システムダウンでサロゲート(身代わりロボット)たちがバタバタ倒れていく光景にインパクトがあり、そうなってからでないと街の表に人々が出てこられない姿に、現代人の抱えている問題が凝縮されているように感じられた。

 まさに“addiction”という単語が聴こえ、“依存症”という字幕が現れたように、メカニックやシステムというものに人間が依存している現状を思えば、この作品が現出させた世界を只の絵空事としては観られないところがあり、キャンター博士(ジェームズ・クロムウェル)の悔悟と警句をマッドサイエンティストの手前味噌な独白とは思えない気にさせるところがいい。

 人々がみなサロゲートを使っている図というのは、やはり気持ちの悪いことだと思う。サロゲートサービス最大手のVSI社をNTTに置き換えれば、まさに日本のケータイ事情にも通じているような気がした。それで言えば、携帯電話の不所持を続けている僕は、サロゲートを拒み、人間の労働による自給自足生活を営んでいた独立区の住人に当たるというわけだが、映画では、その独立区の住人の指導者がサロゲートだったりするところに皮肉があり、なかなか気が利いているように思った。いつの世も時代も、人々は指導者の真の姿を知らないとしたものだ。

 そして、ステップフォード・ワイフを髣髴させる女性たちのサロゲート顔がなかなかよかった。また、トム・グリアーを演じたブルース・ウィリスのサロゲートの若顔には感心させられた。『ミクロの決死圏』の頃には、到底真似のできないマジカルな技術だ。今の技術と医学的知見で『ミクロの決死圏』をリメイクすると、どのような体内宇宙を現出してもらえるのだろうか。もしかすると、NHKスペシャルなどでは、よくやっているのかもしれないが、NHK番組だとコーラの存在と扱いは期待できないのが残念だ。
by ヤマ

'10. 2.17. TOHOシネマズ8
'10. 2.18. TOHOシネマズ8



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