『今度は愛妻家』
監督 行定勲

 写真を撮れなくなって仕事もせずに家でごろごろしているぐうたらカメラマンの北見俊介(豊川悦司)にしても、心優しいけれど何事にも優柔不断で自分の道を踏み出せず、才能がありながらスーパーのチラシの写真を撮っていることにも飽き足りなさを覚えずに俊介のアシスタントを続けている誠(濱田岳)にしても、俊介のところに入り浸っている年増オカマの文ちゃん(石橋蓮司)にしても、揃いも揃って三人ともが、絵に描いたように不器用な男の物語だった。不器用な男の物語という以上に、男というものは須らく不器用なんだと言わんばかりだ。しかし、三人の男たちが、そのようなもどかしいまでの暮らしぶりを重ねている事情については、少々わけがあって、それが明かされると、その不器用さのなかに何ともファンタジックで暖かな人間関係の織り成す綾が浮かび上がってくる仕掛けになっていた。そして、その綾こそがまた不器用極まりないものだったりする。

 僕は自分が小賢しいからか、そういう不器用な男の物語は嫌いじゃないのだが、この作品の場合、いかにも女性が男の不器用を肯定的にファンタジックに描き出そうとした感じの心地悪さがあって、そこに何だか興醒めを覚えた。そして、悪くない話なのに、少々もったいない気がした。アイディアルとロマンチックを好みながらも、ファンタジックを苦手に感じる僕は、基本的にはリアリストなのかもしれない。

 薬師丸ひろ子も、石橋蓮司も、豊川悦司も、濱田岳も、なかなか達者な演技を見せてくれていたし、俊介がさくら(薬師丸ひろ子)に求められて、別離を前にした最後の写真を住家で撮る場面を筆頭に、演出も健闘していたように思うけれども、何もかもを台詞にしてしまった舞台劇の台本のような脚本のために、映像によって醸し出すべき行間の余白が随分と消し込まれていたような気がする。序盤で観る側に何だかおかしな具合だと感じさせていた部分の辻褄を一気につけるべく明らかにされる事々が、まるで意表を突かれるようなものであれば、その意外性に打たれてファンタジーにも引き込まれたのかもしれないが、それにしては、それまでに仄めかしが多く、僕に対しては逆効果に働いたように思う。

 少々心地の悪いファンタジーだと感じさせた部分は主に原作、余白の乏しさは主に脚本に、その責があるように感じたが、期せずして両方とも女性の手による作品だった。“男の不器用”は、女性の描く題材としては適していないような気がしたが、不器用な男を描いて、巧まざるユーモアとペーソスを豊かな行間余白とともに描き出していた秀作不灯港を観たばかりだから、余計にそう感じたのかもしれない。

 三人の中でも、とりわけ俊介の不器用さが、やたら女々しく、感傷的に過ぎるように映る人物造形に堕していたのが惜しまれる。だが、そこのところが紅涙を絞るのだろう。マーケッティング的には狙いどおりなのかもしれない。



推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1391319604&owner_id=3700229
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20100120
推薦 テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/1001_3.html#aisai
by ヤマ

'10. 2. 9. TOHOシネマズ4



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