『ディア・ドクター』
監督 西川美和

 原作・脚本・監督を担った西川美和の把握力と造形力というのは、実に大したものだと見惚れていた。ゆれるのようなスリリングさやインパクトはないけれども、確かな人間観に裏打ちされた人物造形が素晴しい。とりわけ松重豊の演じた刑事の存在が効いていたように思う。

 実弟が自治医大を卒業して僻地医療の現場に十年近く携わっていたこともあって、田舎の村の診療所を舞台にした映画作品ということでの興味も一入だったが、美談に傾くことなく、医者であれ刑事であれ製薬プロパーであれ、プロの職業人というものをマスコミ的な軽薄さで批判的に貶めることなく描き出すことに、最も力を注ぎ込んでいることがよく伝わってきた。

 伊野(笑福亭鶴瓶)が発した「免許もってないねん」と「資格がない」という二つの台詞が耳に残っていて、ついつい“免許と資格”というものについて思いを巡らせた。先の台詞は物語の始まりに出てくるのだが、研修医として赴任したばかりの相馬(瑛太)に自己紹介と挨拶がてらに僻地医療の実情を語りながら、大竹看護婦(余貴美子)を連れて往診に出るときだったので、つい僕は医師免許を思い、その開けっぴろげさに意表を突かれたのだが、何のことはない運転免許の話であることがすかさず露になり、思わず「やられた」と感じた。作り手の思惑に早々と乗せられたわけで、妙に心地よかった。後の台詞は、娘りつ子(井川遥)が医師になっている独居老人の鳥飼かづ子(八千草薫)の想いを汲んで、医療従事者がしてはならないことを敢えて行ってしまった伊野が自らについて語った台詞で、彼の胸中を思うと実に深みのある場面で出てきたものだ。

 彼は、自らの取った行為と医師免許の両方を指して「医者の資格がない」と言ったのだが、伊野が僻地医療に携わっている姿を傍で見てきた相馬は、新米ながら医師にもかかわらず、後者への思いには全く及ばず、前者についても、大病院の経営者で医療より経営に熱心な自分の父親のほうがよほど医師の資格がないという思いを抱く。それくらいに、伊野は優れた医者になっていたわけだ。彼がいい医者であることを言葉で済まさずにエピソードで描き出しているところが大したもので、とりわけ感心したのが、実の娘が医者であるばかりに却って医師の診察を受けられなくなっているかづ子の胸中を察して、人目のあった往診時にわざとペンライトを落として家具の下に蹴り入れ、夜になってから落し物を取りに訪ねて体調や心境を聞き出す様子を描いていた場面だった。いい医者というものが単に医療に係る知識や技術によって保証されるものではなく、患者への問診力がいかに重要かを的確に捉えている。それと呼応するように、失踪した伊野を追い疑う刑事の配置が効いていて、どちらの職務にも最も重要な能力が、観察力と探究心そして何よりも相手から手掛かりを聞き出す力であることを示していた。


 そのうえで同時に、推測や思い込み、感情に左右されてばかりいて、客観的な事実の伝達など基本的にはできやしないのが人間であることも痛烈に描き出していたところが実に見事だった。伊野に信頼と尊敬と親しみを寄せ、名医と誉めそやしていた村人が、彼の無免許が明るみに出た途端に手のひらを返したように、前からおかしいと思っていたなどと言い出す。あれだけ親身に患者たるかづ子の思いに寄り添い、禁断までも犯した伊野について、彼女は「なにもしてくれなかった」ときっぱり証言し、すっかり被害者になっていたのが強烈だった。かほどに人の言葉というものは当てにならないにもかかわらず、検査データや物証は決め手としては最重要かもしれないが、正確な診断ないしは犯人逮捕に到る手掛かりは専ら人の口から発せられる言葉でしかないということが、彼らの職務の根底にあるということなのだろう。決して鵜呑みにはできない人の言葉を疑いつつも手掛かりにして、些細な異変に注意を凝らして読み取るのが診断と捜査の要点というわけだが、さればこそ、誤診や処置ミス、誤認逮捕や迷宮入りが生じないはずがないという気がする。

 それだけ相通じていて、どちらも社会的に必要欠くべからざる職業であり且つ、困難と重責を負う上にミスが決して許されない職務ながら、痛烈で決定的なのは、刑事に免許は必要なく、医師には免許が必須とされていて、両者の所得に比較にならない差があることだ。村の人口1500人の命を託されることで2000万円の給与が保証されているのが医者なのだが、軽症患者と重篤・難病患者とでは難度に格段の差がある医療と同様に、軽犯罪と重大事件・知能犯とでは雲泥の差のある犯罪捜査に携わる技能職に対しては、比較にならない所得しか保証されていないように思う。


 物語のなかに刑事を配置して捜査に携わらせるなかで、こういった事々への気づきを促す仕込みを巧みに盛った脚本が実に周到だった。そして、敏腕刑事が常にそうであるように、医師の技量もオン・ジョブ・トレーニングのなかで磨かれるのであって、免許などで保証されるものではないことが明確に示される。そもそも、およそ職務的技量というものは、すべからくそういうものだという気がするのだが、豪邸とは程遠い伊野の居宅の畳敷きの部屋には膨大な医学書・文献が積み開かれ、彼がいつも熱心に勉強している姿がたびたび映し出される。単に無免許だから日々の勉強が欠かせないのではない。学問的研究とは違って限られた専門領域への対処だけでは済まないのが現場であり、時代や技術の変化と共に諸相が変容している犯罪捜査の現場と同様に、医療もまた新薬・新技術・新病に追われるということがあるような気がする。おそらくは免許保持者以上に地域医療と勉強に精出していたからこそ、偽医者であることがバレずに来られたのだろう。だが、生の症例に即する形であれだけの医学書や文献を漁っていても広範な領域をマスターできるものではないからこそ、素人目にも際立つような“名医”ぶりを発揮することができた“死からの蘇生”は、偶然の賜物だったし、気胸への処置は、救急救命の現場経験を積んだことのある大竹看護婦の判断だった。医師以上に処置判断のできる看護婦の存在というのが、決して珍しいものではないように思えるのも、技量を培うものが、免許取得に至る知識の習得以上に、臨床におけるオン・ジョブ・トレーニングだからだろう。それなのに、医師免許を取得し有資格者とされた途端に全責任を負うことになるのだから、つくづく難儀で因果な職だと思う。

 僕が最も気に入った場面は、伊野の素性が元製薬プロパーであったことを突き止めた刑事が、同じく製薬プロパーの斎門(香川照之)に、失踪してから無免許だったことが判明すると忽ち掌を返してしまうような村人のために偽ってまで医者を務め続けた理由を問うたとき、斎門が突然、椅子に腰を掛けたまま卒倒してしまったのを刑事が思わず手を出して支え止めた場面だった。「刑事さんが今こうして僕を助けてくれた理由は何なんですか?」との台詞が効いていた。人の取る行動に明確な理由がある場合のほうが稀なのだろうと僕も思う。刑事の場合は犯行動機、医師の場合は病因を突き止めないといけないわけだが、なかなか判らないという以前に、そもそも確たるものがないことのほうが多いのかもしれない。伊野が医者を懸命に続けていた一番の理由は、行き掛かりのようなものだった気がしてならない。ある意味、似たような職務に従事している刑事の場合も、そういうものだったりするのではないだろうか。



参照テクスト:掲示板談義編集採録


推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20090628
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2009tecinemaindex.html#anchor001905
推薦テクスト:「TAOさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1209876154&owner_id=3700229
推薦テクスト:「ミノさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1226107146&owner_id=2984511
推薦テクスト:「シューテツさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1209187329&owner_id=425206
推薦テクスト:「大倉さんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1219641314&owner_id=1471688
推薦テクスト:「超兄貴ざんすさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1225893664&owner_id=3722815
by ヤマ

'09.10.18. TOHOシネマズ1



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