『トゥヤーの結婚』(Tuya's Marriage[(国構えに冬)雅的婚事])
監督 ワン・チュアンアン


ヤマのMixi日記 2009年09月25日22:53

ケータイも出てきていたし、2006年という製作年次の現代中国の話なんだろうが、
同時代性を感じるには、生活状況も感覚も懸け離れていて圧倒された。
強烈なキャラクターだったなー、トゥヤー(ユー・ナン)。
自己決定感の強さには瞠目すべきものがあった。
されど、その強い自我が一切自己利益には向かっていかない。
彼女の価値観の基軸にあったものは、何なのだろう。
いくつか思うところもなくはないが、どれもしっくり来ない。
中国領モンゴルの女性が観ると共感を覚えるのだろうか?
日本人女性の目には、どのように映ったのだろうか。
ご覧になった方々から教えていただけると嬉しいなー。
でも、あんまり観ている人がいなさそうな気もするけど(たは)。


*コメント
2009年09月25日 23:07 (ケイケイさん)
 日本人女性じゃありませんが、トゥヤーが大好きです(笑)。

彼女の価値観の基軸にあったものは、何なのだろう。
 家族を守るっていうことじゃないですか? 連れ子ならぬ、連れ夫も、「家族」という括りから考えたら、トゥヤー的には当たり前なんだと思いました。
 こちら↓が感想です(^−^)
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20080403

 実はこの作品を観た次の日、姑さんが亡くなったんですよ。何だかおばあちゃんの置き土産のような気がしてね。「いつまでも息子をよろしく」って(笑)。


2009年09月25日 23:24 ヤマ(管理人)
 早速に、ありがとうございます。
 トゥヤーの台詞に「家族の誰も死なせはしない」っていう、実に直接的なものがありましたから、それはもっともなお話だと思います。凍てつき始める夕闇が迫るなか、羊を追いに行って戻らない長男の捜索に出たトゥヤーがからくも息子を発見して連れ戻る際に、全財産と言ってもおかしくない羊の群れに対し、羊はもういいからと放っぽって一刻も早く温かい家に連れ帰ろうとする姿にも、それは現れていましたよね〜。
 でも、僕はそのあまりにも直線的な絶対性に、却って彼女の“価値観の基軸”そのものは、家族愛ではない感じを受けたのですよ。
 それはともかく、ご覧になっていることを教えていただいたので、早速そちらの映画日記を拝読に参ります。ありがとうございました。


2009年09月26日 00:21 ヤマ(管理人)
◎ケイケイさん、
 とてもケイケイさんらしい映画日記でした。力も入ってましたね(笑)。
 「このあらすじを読んだ時、絶対観ようと思いました。」と書いておいでなのを読み、そーだなー、ケイケイさんは確かにトゥヤーに通じるとこ、かなりありそうだもんなぁと思いましたよ。上のレスコメントで触れた台詞については、案の定、言及しておいででしたね。肝のとこですもんね。
 それとともに、義姉との会話のシーンに触れておいでなのも、とてもケイケイさんらしいと思いました。

 いくつか質問です。
 「人がいいばかりで甲斐性がなく、不実な妻の言いなりだったセンゲーですが、決してろくでなしなどではありません。それは近くにいた、トゥヤーが一番知っています。」と書いておいでのようにご覧になっていた二人の関係なれば、センゲーの浮気妻の姿を町で見かけたと聞いて、センゲーが取るものも取り敢えず町に向かったことに対して、トゥヤーが、それは自分が出した条件をクリアするために駆けつけたんだと受け止められましたか? もし、そうなら、センゲーの帰りを待たずして別の結婚話を進めたのは何故だとご覧になりましたか?

 バータルの身体障害を「男性機能は大丈夫なのでしょう」と受け止められたのは、松葉杖で歩行できる程度ならば、っていうことですよね? そのようにご覧になって「これからはトゥヤーは、子供たちだけではなく、バータルに取っても母となり、妻ではなくなります。男性として耐えがたい屈辱と同時に、妻子の幸せを願うバータルもいるはず」と綴っておいでですが、バータル自身の思いとしても、そういう同居のほうを願うと自然に思えますか? それともトゥヤーの強烈な意志を叶えさせてやろうという思いのほうが強いように思えますか?

 ケイケイさんも仰天したとの「彼女の再婚の条件は、バータルも共に面倒をみてくれる人」しかも家族離散を来たさない同居という形でというものが、元夫のバータルにとってどういうものか、ということだけでなく、息子のザヤに対しても「同居する二人の父親」という揶揄の対象となる事項を提供し、息子につらい思いを与えることもトゥヤーの自己決定では想定内だったと思いますか?

 ラストの彼女の涙は、映画日記にお書きのように、確かにとても複雑なものだったと僕も思います。でも、チラシの裏面の最上段に大きな文字で書かれていた「そのとき、彼女は安堵の涙を流した……。」というのは想像の埒外で、僕の感じていた複雑さのニュアンスには含まれていなかったので、帰宅後、チラシを読んで驚いたのですが、それについては、どう思われますか?

 いろいろいっぱい訊いちゃいましたが、教えてもらえると嬉しいな〜。


2009年09月26日 11:03 (ケイケイさん)
そーだなー、ケイケイさんは確かにトゥヤーに通じるとこ、かなりありそうだもんなぁと思いましたよ。
 ワタクシも、思い込みの強い人間ですから(爆)。

それとともに、義姉との会話のシーンに触れておいでなのも、とてもケイケイさんらしいと思いました。
 あのシーン、男性的にはどう映るんですか? 嫁姑、あるいは小姑というと、諍いがあって当たり前という考えが多いですが、元を辿れば女同士でしょ? 縁あって親子姉妹になったわけだし、私はああいう描き方は好きですね。まぁ私が姑や小姑で苦労がなかったからかもですが。

センゲーの浮気妻の姿を町で見かけたと聞いて、ゼンゲーが取るものも取り敢えず町に向かったことに対して、トゥヤーが、それは自分が出した条件をクリアするために駆けつけたんだと受け止められましたか? もし、そうなら、センゲーの帰りを待たずして別の結婚話を進めたのは何故だとご覧になりましたか?
 いいえ。トゥヤーはゼンゲーが妻とよりを戻しに町に行ったと落胆し、別の結婚話を進めたと思いました。

バータル自身の思いとしても、そういう同居のほうを願うと自然に思えますか?
 思いません。死んだ方がましだと思っていると。実際自殺未遂してますし。

それともトゥヤーの強烈な意志を叶えさせてやろうという思いのほうが強いように思えますか?
 そう思いました。自殺未遂の一件で、トゥヤーに罵倒されたのがきっかけだったと思います。それまでは苦労をかけているとは思っていても、自分の存在が妻の支えになっているとは、思っていなかったと思うんですね。何も出来ないなら、男として夫としてのプライドを捨てて、妻と辛さを共有して生きて行こうとしたんだと思いました。

息子のザヤに対しても「同居する二人の父親」という揶揄の対象となる事項を提供し、息子につらい思いを与えることもトゥヤーの自己決定では想定内だったと思いますか?
 思います。でも、あの過酷なかの地で生きて行く上では、再婚か離婚しか選択がないですよね? 自分の母親は異常か(笑)、それともそれほど自分の父を愛していたのか、息子がどう判断するかは、ずっと後の事、それよりはまず「生きる」ってことが、トゥヤー的には一番重大なことだったと思いました。

「そのとき、彼女は安堵の涙を流した……。」というのは想像の埒外で、僕の感じていた複雑さのニュアンスには含まれていなかったので、帰宅後、チラシを読んで驚いたのですが、それについては、どう思われますか?
 そのコピーはあんまりではないかと(笑)。あの涙は「本当にこれで良かったのか?」と、未だに彼女の心に葛藤がある証拠ですよね。もちろん今後の不安もいっぱいだし。あの涙があるから、鑑賞後深い余韻があったと思います。それ書いた方、映画観ないで書かれたんじゃないですか?(笑)


2009年09月26日 19:09 ヤマ(管理人)
ワタクシも、思い込みの強い人間ですから(爆)。
 いや、情が濃いということですよ。家族愛とか自負や責任感の強さにおいて、通じるとこあるなと思った次第。映画を観たときは、トゥヤーの自己決定感や自我の強さが印象深くて、ついぞ想起してなかったんですけどね。

>>義姉との会話のシーン
あのシーン、男性的にはどう映るんですか?
 いいシーンだと思いますよ。女性同士の連帯みたいな感じがあって。映画日記にお書きになっているように、義姉のほぐし方がいいですよね。

>>自分が出した条件をクリアするために駆けつけたんだと受け止められましたか?
>>センゲーの帰りを待たずして別の結婚話を進めたのは何故?
トゥヤーはゼンゲーが妻とよりを戻しに町に行ったと落胆し、別の結婚話を進めたと思いました。
 たちまち“よりを戻しに行った”と解しますか(笑)。でも、それだと、映画日記にお書きの「妻の言いなりだったセンゲーですが、決してろくでなしなどではありません。それは近くにいた、トゥヤーが一番知っています。」からすれば、ちょっと浅はかな感じがありませんか?
 僕は、誇り高く自己決定心が強くて行動的なトゥヤーが、“待つ”という受動的な構えに耐えられなかったのではないかと感じてます。自分の出した条件をクリアしに向かったと思ったのだけど、センゲーの妻もまた我の強そうな女性なわけで、センゲーはろくでなしなどではないけど、あの妻に太刀打ちできるのかと当てにして待つことができなくなったんじゃないかな。そこんとこには、かなーり強く彼女のプライドの高さも影響している気がしてます。
 ちょっとトゥヤーには意地悪な観方かもしれませんが(たは)。

>>バータル自身の思いとしても、そういう同居のほうを願うと自然に思えますか?
思いません。死んだ方がましだと思っていると。実際自殺未遂してますし。
 ですよねー。でも、トゥヤーは、そんなこと許さないわけです。元々のmixi日記にも書いたように、彼女の強い自我は一切自己利益には向かっていかないのですが、皆のためと自分が信じて疑わないことに皆を従わせようとするのが、トゥヤーの強烈な個性だったように僕は感じました。だから、「中国領モンゴルの女性が観ると共感を覚えるのだろうか? 日本人女性の目には、どのように映ったのだろうか。」と書いたのでした(あは)。

>>それともトゥヤーの強烈な意志を叶えさせてやろうという思いのほうが強いように思えますか?
そう思いました。自殺未遂の一件で、トゥヤーに罵倒されたのがきっかけだったと思います。
 同感です。

それまでは苦労をかけているとは思っていても、自分の存在が妻の支えになっているとは、思っていなかったと思うんですね。何も出来ないなら、男として夫としてのプライドを捨てて、妻と辛さを共有して生きて行こうとしたんだと思いました。
 はい。これも同感です。
 でもって、バータルが曲がりなりにもそういう心境になれるうえでは、僕は、トゥヤーの罵倒だけでは足りなくて、彼が男性機能を失っていることが、とても大きく作用していたように思えてなりません。その助けを借りなければ、できない断念だったとは思われませんか?
 トゥヤーにぞっこんだったあのボロルでさえ、それだけはと拒んだ条件だったところにモンゴル男子の沽券のありようが窺われていたような気がします。自殺未遂までしたバータルがそれを越えてトゥヤーの思いを汲む意志を固めたことにおいて、自分はもう男ではなくなっているとのツライ自覚の助力があればこそ、だという気がします。
 一方、センゲーがボロルの越えられなかった沽券を越えられたのは、彼が、ケイケイさん仰るところの「不実な妻の言いなり」を晒してきたなかで、とうに“モンゴル男子の沽券”など保ちようがなくなっていたからだと思います。
 何かを失えば何かを得るし、何かを得れば何かを失うとしたものですが、センゲーは、ボロルの捨てられない沽券を失っているおかげでトゥヤーを得ることができたのだろうと思います。
 そんなふうに感じていたから、男性機能の喪失如何に関連しての質問をしました。

でもあの過酷なかの地で生きて行く上では、再婚か離婚しか選択がないですよね? 自分の母親は異常か(笑)、それともそれほど自分の父を愛していたのか、息子がどう判断するかは、ずっと後の事、それよりはまず「生きる」ってことが、トゥヤー的には一番重大なことだったと思いました。
 それはそうでしょうね。でも、それぞれが「生き延びる」ことが至上目的ならば、トゥヤーの再婚条件は、婚家での前夫との同居である必要はなく、例えば、前夫を義姉に引き取ってもらったうえで、前夫の扶養経費の負担のみを条件とする方法もありますよね。バータルも施設で一人暮らすのではなく、親族との同居なら、直ちにあのような自殺衝動を引き起こしはしなかったのではないかと思うし、ボロルもトゥヤーの元義姉に経済的援助を加えることには躊躇しなかった気がします。
 でも、トゥヤーにおいては、断じて血縁家族の離散は認められないんですよね。
 つまり、一番重大なのは「生きる」ではなく「血縁家族の離散回避」なわけで、そのためには、より困難で不利な再婚条件の現実的妥協は在り得ず、前夫にとっても、再婚した夫にとっても、心理的負担の非常に大きい結婚を強いることも止むを得ないわけで、幸いセンゲーというモンゴル男には少ない(っぽい)稀人がそばにいたから収まりはしたものの、かなりの無理を抱え、ケイケイさんも映画日記に「この複雑な思いを抱き続け」とお書きの家族の物語が続くことになるわけです。それもまた一つの人生であり、その将来は、ケイケイさんが映画日記にお書きのとおりの「生きる事に誠実でたくましく、一生懸命な「三人の親」を持った二人の子供は、必ずやこれを糧に、立派に成長してくれるでしょう。」も考えられるとは思いますけどね。

>>「そのとき、彼女は安堵の涙を流した……。」
そのコピーはあんまりではないかと(笑)。
 ですよねー(笑)。ま、ことほど左様に、人の解釈は様々ということですが、なぜ“安堵”を想起したのか伺ってみると、思いがけない発見あるかも、ですよ。全く想像がつきませんが(苦笑)。

あの涙は本当にこれで良かったのか?と、未だに彼女の心に葛藤がある証拠ですよね。
 はい。精一杯やったんだけど、揺らいでいるんですよ。 >もちろん今後の不安もいっぱいだし。あの涙があるから、鑑賞後深い余韻があったと思います。
 同感です。女性方のご意見を伺いたいと僕が思った大きな要因でした。

それ書いた方、映画観ないで書かれたんじゃないですか?(笑)。
 かもしれませんね(笑)。


2009年09月26日 23:47 (ケイケイさん)
ちょっと浅はかな感じがありませんか?
 あぁ、ちょっと訂正ですね。ゼンゲーは今までも別れると言いつつ、そのまんまだったでしたっけ? 妻に対しては優柔不断でしたよね。なので、今回も元のサヤに収まると、トゥヤーは思ったのかも。う〜ん、この辺はだいぶ前に観たので、不確かです。

そこんとこには、かなーり強く彼女のプライドの高さも影響している気がしてます。 ちょっとトゥヤーには意地悪な観方かもしれませんが(たは)。
 ヤマさん的観方なら、私はプライドというより、不安な女心が別の結婚話を進めさせた、かな?

日本人女性の目には、どのように映ったのだろうか。」と書いたのでした(あは)。
 私はすぐに彼女に共感出来たので、あまり自我の強い人と言う感じはなかったですが、そう言われれば強烈ですよね(笑)。とにかく生きることが大前提にあったと思ったんですよ、トゥヤーには。彼女を観ていて母性というより、「孕む性」というのを強く感じました。

僕は、トゥヤーの罵倒だけでは足りなくて、彼が男性機能を失っていることがとても大きく作用していたように思えてなりません。
 なるほど。この辺りは明確には描かれていなかったのえ、観る者に委ねられますから、ヤマさん説も当然ありですね。

自分はもう男ではなくなっているとのツライ自覚の助力があればこそ、だという気がします。
 この辺りは女性と温度差があるのが、物悲しいですね。妻は夫が気にするほどには、重大視しないと思います。『欲望』の、「裸で手を繋いで眠りましょう」で満足しますからね。

でも、トゥヤーにおいては、断じて血縁家族の離散は認められないんですよね。
 うん、それが大前提ですね。

つまり、一番重大なのは「生きる」ではなく「血縁家族の離散回避」なわけで、そのためには、より困難で不利な再婚条件の現実的妥協は在り得ず、前夫にとっても、再婚した夫にとっても、心理的負担の非常に大きい結婚を強いることも止むを得ないわけで、
 言われてみればそうですよね、ホントに男性陣にはひどいことを強いているわけで。でも観ている間、私も別で暮らすなんか、全然頭に浮かびませんでした(笑)。同化していたというより、思考回路がいっしょなんだわ(爆)。男性陣が受け入れたのは、私は沽券というより、「トゥヤーには自分が必要なんだ」という、自負のような気がします。

なぜ“安堵”を想起したのか伺ってみると、思いがけない発見あるかも、ですよ。全く想像がつきませんが(苦笑)。
 ムリムリ考えると、「やっと再婚出来た。これで明日の食事に心配しなくて済む」ですかねぇ。そんな映画じゃないですが(笑)。


2009年09月27日 08:38 ヤマ(管理人)
ゼンゲーは今までも別れると言いつつ、そのまんまだったでしたっけ?
 両方でしたね。何もかも許すから戻ってもらいたいと言いつつ、もう別れると言ってみたり。意思決定ができているものではなく、ネガティヴな感情表出を示しているだけのことだったように思います。

妻に対しては優柔不断でしたよね。
 基本的に優男ですからねー。そう言えば、ケイケイさんは優柔不断男がお好みだとか言ってませんでしたっけ?

なので今回も元のサヤに収まると、トゥヤーは思ったのかも。
 そーです、そーです。
 で、この信頼しきれない思いがどこから来るかってとこが要点ですよね。

う〜ん、この辺はだいぶ前に観たので、不確かです。
 恐れ入ります。タイムラグがありながら談義をするのは、大変ですよねー。

私はプライドというより、不安な女心が別の結婚話を進めさせた、かな?
 僕も“待つ”ことに耐えられない不安が引き金だと思っているのですが、その不安を引き寄せたのは、彼女のプライドというよりは、優男の頼りなさのほうだというのがケイケイさんへの映り方なんですねー。やはり女性の目にはそう映るのが自然だと思います。
 優柔不断男を御贔屓のケイケイさんにして尚そうなのだから、ほとんどの女性には、ゼンゲーのせいだと映るんでしょうね〜。確かにその通りでもあるわけですから。

彼女を観ていて母性というより、「孕む性」というのを強く感じました。
 それは僕も強く感じましたねぇ。ケイケイさんが映画日記に“男”の必要性について“男手”に主眼を置いているのと同じようなニュアンスでの“雄種”みたいなところで性を捉えている感じもありました。性にコミュニケーションを求める感覚がほとんど感じられませんでしたね。ボロルに対して「その気にさせなきゃ」との台詞を発する場面を構えながらも、尚そのようなニュアンスを帯びさせていなかったことが目を惹きました。

>>自分はもう男ではなくなっているとのツライ自覚の助力があればこそ
この辺りは女性と温度差があるのが、物悲しいですね。
 男の沽券とか“男らしさ”とかに囚われている男ほど、強いでしょうね。そういう意味では、ゼンゲーは一皮剥けていたのではないかという気がします。

『欲望』の、「裸で手を繋いで眠りましょう」で満足しますからね。
 コミュニケーション的な捉え方をするほどに、そういう傾向は強くなるのかもしれませんね。

言われてみればそうですよね、ホントに男性陣にはひどいことを強いているわけで。でも観ている間、私も別で暮らすなんか、全然頭に浮かびませんでした(笑)。
 そりゃそうでしょう。それでこそケイケイさんだと思いますもの。

同化していたというより、思考回路がいっしょなんだわ(爆)。
 単に同性であることに加えての重要点ですね(笑)。

男性陣が受け入れたのは、私は沽券というより、「トゥヤーには自分が必要なんだ」という自負のような気がします。
 なんか日本の古風における男女関係を逆転させたような関係のあり方ですね(笑)。男女の別の如何によらず“強者の受容”を要する際に生じる心理状況なんでしょう。

「やっと再婚出来た。これで明日の食事に心配しなくて済む」ですかねぇ。
 なるほど。

そんな映画じゃないですが(笑)。
 同感です(笑)。





編集採録 by ヤマ

'09. 9.25. 美術館ホール



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