『クローンは故郷をめざす』
監督 中嶋莞爾

 上映会主宰者からの依頼による見所紹介に『はがね』に惹かれ、『箱-The Box-』に少し失望し、手元の映画日誌に「次作に期待したいところだ」と綴って七年が経つ。当時、脚本よりも絵コンテから始めると語り、映像表現としての優れた映画作品は、優れた脚本で保証されるものではないとも思っていると話していた郷土出身の映像派監督の作品だ。その中嶋監督が初の劇場公開作品として監督・脚本を担い、ヴィム・ヴェンダースから、最初に脚本を読んだ時点でベストだと思ったとの高い評価を得た作品が、一体どのような物語をつむいでいるかが、今回の僕の一番の注目どころだ。と綴り、今年のとさピク上映会のラインナップのなかでも、僕にとっては一番の期待作。今から観るのが楽しみだ。と告知していた映画だ。

 オープニングの白い光の強さと呼応する形で、クローン2号の耕平(及川光博)が先の見えない歩みを続ける荒れ野を包んでいたラストの霧の白さが印象的だった。その直前に、船外作業中に殉職した宇宙飛行士の耕平(及川光博)と同じ左手の傷がクローン2号に出来たことを映し出すショットがあって、心に残っている。子供の頃に双子の弟の死を招いた一因が自分にあることが深い傷になっていた耕平が、クローンとして再生された際に、クローン1号では、その受傷記憶が時間経過の希釈を経ぬままダイレクトに蘇って再生時点の大人の耕平の自己同一性を脅かす不調和を来たしていたのが、勅使河原博士(品川徹)のプログラムによってクローン2号では改善されていたわけだが、クローン2号がクローン1号の死を看取ることで恰も幼時の双子の死を追体験し、記憶が血肉化することで、DNA情報にはない外傷跡が再生していた。記憶というものは、情報とは違って記録の継承によって再生できるものではなく、情報以上に体験による血肉化にこそ意味があるということなのだろう。

 七年前に観たはがね』『箱−The BOX−の記憶から、死と再生を主題にした作品だろうと予想していたが、主題は“記憶”であって、死と再生は、むしろ題材としての後景に引いている感じだった。双子、肉体と霊、生身と幻、オリジナルとクローン、クローン1号とクローン2号、さまざまなバリエーションのダブルイメージが提示されていたが、少し多すぎて焦点が拡散した感じがなくもなかった。けれども、なかなかイメージ喚起力に富んだ作品で、“記憶の抵抗”“魂の共鳴”といったキーワードが記憶に残る。先ごろ観たばかりの20世紀少年シリーズといい、このところ「人は記憶の生き物である」ことを印象づけられる作品が続いているような気がする。

 クローン2号の耕平は、クローン1号を追って心の赴くままに故郷をめざし、奇しくもオリジナルの耕平と通じる体験をして、科学の力による物理的な再生では足りない“存在としての再生”を果たしたからこそ、その死を看取ったクローン1号の存在を肩に背負って生き続けることになる。霧に包まれ先の見えない道を宇宙服のようなものを担いで歩き続けるクローン2号の姿というのは、そういうことなのだろう。さすれば、最後の最後、耕平の歩く姿も見えなくなった後に、短い時間、ふっと霧が消え去ったように見えたのは、再生と双子の死という重荷を背負って生きる耕平に晴れ間が訪れたということなのだろうか。その晴れ間というのが、聖地ならぬ故郷巡礼の旅の果てに、存在としても再生した耕平が妻の時枝(永作博美)の元に辿り着いたことを意味しているように思えるのは、僕がコールド・マウンテンを想起したからかもしれない。

 廃屋、廃工場、滅び、人工的な命といったモチーフは、本作でも継承され、中嶋監督の個性として改めて印象づけられた気がしているが、そういう造形面以上に、今回、目を惹いたのは、双子の耕平・昇の母親像の描き方だった。演じた石田えりの力量に負う点もあるのだろうが、前二作には乏しかった豊かな人間味が作品に宿るだけの演出力を得ているように感じられた。次作が楽しみだ。



推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2009kucinemaindex.html#anchor001830
by ヤマ

'09. 9.11. 民権ホール



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