『20世紀少年』
『20世紀少年<第2章> 最後の希望』
『20世紀少年<最終章> ぼくらの旗』
監督 堤幸彦

 言うなれば“愛すべき仰々しさと卑近の共存”のなかに「誇大妄想的なオタク性」と「大きく構えながらもやたらと小さな世界に閉じた構造」を感じていた第2章までのものが、最終章では些か度を越してきて、少々呆れながら観つつも、それなりの含蓄を湛えた結末を、ある意味、妄想的なものとは対極にある真っ当さで印象づけて終えたところに、作り手の健全な遊び心を強く感じた。なかなか仕掛けが大きくて、広げた大風呂敷に見合った仕舞いがつくのか危ぶまれたのだが、堂々たるエンターテインメントだったように思う。脚本参加もしているとの浦沢直樹の原作漫画を一度も読んだ事がないので、ファンの間で取り沙汰されているらしい「原作の世界観」の映画的構築としての是非の判定はしようがないのだが、映画を観る限りにおいては、“世界観”といった言葉を持ち出すほどのものではない気がする。基本コンセプトは、専ら“懐古趣味的遊び心”にあったように思う。

 第一章から2015,1973,1969,1997,1971,2000と時制が飛び回っていたが、さしたる混乱はなく、'73年に中学三年生だった彼らは、世代的に僕自身とぴたりと重なるものだから、小ネタ的に溢れ出してくる“昭和の記憶”というものが、いちいち「おぉ~平凡パンチかぁ、麻田奈美か~」という調子で呼応できて、なかなか楽しかった。敷島博士や金田正太郎の名も懐かしい「鉄人28号」にしても、「仮面の忍者赤影」にしても「忍者ハットリくん」にしても「ウルトラセブン」にしても、「サザエさん」にしても「明日のジョー」にしても「トキワ荘の青春」にしても、「太陽にほえろ」にしても「大阪万博」にしても、「三波春夫の世界の国からこんにちは」にしても「遠藤賢司のカレーライス」にしても「ウッドストック」にしても、みんなみんな覚えのある懐かしいものだ。

 映画のタイトルになっている“20世紀少年”ということで言えば、この作品は、20世紀中盤のドイツナチス党の第三帝国による「世界制覇とまでは言わないにしても明白な覇権思想」を体現化するうえでヒットラーが採った手法や20世紀末に日本に出現したオウム教団による事件というものが大きく作用を及ぼしている作品であるように感じた。21世紀少年においては、少年の空想における巨大悪としての“世界制服”などというのは、既に成立しなくなっている気がする。先ごろ観たばかりの“拉致”とでも訳すべき原題を持つ『96時間』が、悪の側に嘗ての常套だった“世界征服”といった野望と呼ぶに足るような大欲はなく、ヒーロー側も“正義”など口にせず、両者ともに卑近極まりない動機でしか物語が成立していない21世紀作品だったことを思うと、世界制服と人類滅亡を企てる巨大悪に立ち向かう“正義”を標榜する本作は、たとえ結末のときを2017年に置こうが、まさしく“20世紀少年”に他ならないと言えるところが面白い。

 それにしても、<最終章>の結末が少年の日の“影の薄さ”に遠因のある物語になっていたところには、少々感心した。同窓会に出てもろくに覚えられていない存在というのは、確かに当人にとっては、過酷なことだと思う。自分の存在していた時間の全てが否定されるかどうかということが、一に掛かって他者の記憶に委ねられているというのは、考えてみれば、恐ろしいことだ。自分が深く傷つき忘れたくても忘れられずにいる出来事を当の傷つけた相手が記憶の片隅にも置いていないということは、応分感を著しく欠くことながら、記憶というものはセルフコントロールで簡単に操作できることではないところが厄介だ。むしろ嫌な記憶として積極的に忘れるほうに作用しがちなものだ。五ヶ月前に観た青い鳥で阿部寛の演じた村内先生が教えようとしていたこともそういうことだったような気がする。そう思えば、そもそもの始まりである<第一章>において、ケンヂ(唐沢敏明)が「予言の書」のことやそれを書いたのが自分であることさえも、すっかり忘れていたという設定が利いてくる。嫌なことだから忘れるとか楽しかったことさえ忘れるとかいう意識も色付けもない形で、とにかく人の記憶の覚束なさを示していて、ちょうどコキーユ 貝殻の浦山を偲ばせたりするものだったのだが、<最終章>まで観終えると、ケンヂの記憶から「予言の書」のことや当時の仲間のことがすっぽり落ちていたことには、それなりに無意識のうちに忘却の力が働くような謂れがあったからで、そのことを思い出し、やり直すことこそが“救済”を要しない予防の手立てであることを示してもいた。大きく振り返れば、この作品の骨格というのは、失われていたケンヂの記憶を取り戻す旅の物語であり、彼の人生がコンビニの店員から、世界の救世主へと“スーダラぐーたら”転換していく物語だったとも言える。それほどに忘れていた記憶を取り戻すことには大きな意味があるということだ。同世代を生きてきた僕の記憶の細部をくすぐり続けてくれた娯楽作品に満載されていた小ネタの数々も、この作品の主題が“人は記憶の生き物だ”というところにあるとすれば、“トモダチ”の正体と動機の鍵の部分とこうして奇しくも重なってくるわけで、なかなか気が利いている。

 かように“人は記憶の生き物”であって、記憶というものがとても大事なのに、その記憶たるものが危うく怪しいことにおいてこのうえないのが悩ましい。けれども、人は記憶を頼りに“アイデンティティ”を保つ覚束なさから逃れられない一方で、実に細々とした些事をやけに鮮明に覚えていたりもするし、忘れていたことを思い出すことで、空想映画のケンヂの例ではなく実際に生き方が左右されてしまったりもするものだ。

 自分が誰で、いかなる者なのか、彼が誰で、何者なのか、それらは一皮めくってみると、記憶という非常に脆い薄皮のような共同幻想で支えられているものに過ぎない。科学の時代たる20世紀では、その末期になってDNA鑑定で親子関係が相当な精度の高さで証明されるようにはなったけれども、それ以前だと血液型だったから結構あやふやだし、血液型判定法が出る以前だとますます以って怪しい限りで、かつては科学性よりも“契り”のほうにむしろ重きが置かれていたように思う。この作品のメインコンセプトは、懐古趣味的遊び心だと僕は観ているけれども、その次に来るのは、この“記憶”と“契り”だという気がしている。ケンヂのみならず、オッチョ(豊川悦司)やユキジ(常盤貴子)、ヨシツネ(香川照之)にとっても、等しくカンナ(平愛梨)は愛し子だったが、そこには、そういう感覚が働いていたように思えてならない。“トモダチ”の横暴から世界を救うために立ち上がった幼馴染たちの“契り”において、次代を託するカンナは、ケンヂの姉キリコ(黒木瞳)の子供である以上に彼らの子供だったのだろう。
by ヤマ

'08.10.23. TOHOシネマズ7
'09. 3.29. TOHOシネマズ4
'09. 8.30. TOHOシネマズ7



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