県立美術館 BOX ART展関連企画『はがね』&『箱−The BOX−』
監督 中嶋莞爾


 展覧会の関連企画として上映された高知市出身の中嶋監督の作品のうち『はがね』のほうは、何年か前に県立美術館の映画製作事業の候補者として検討された際に、アートコーディネーターの藤田氏からビデオを渡され、感想を求められたことがあるので、今回が初見というわけではない。そのとき、ややナルシスティックな独善性に気になるところはあるが、色彩や構図などの画面設計がしっかりしているし、動きの設計もきちんとされていてア−ティスティックな味わいがあり、イメージの喚起力にも富んでいるから、県出身者でもあることだし、事業対象者には適しているんじゃないかという意見を伝えた覚えがある。でも、藤田氏は、どうも粒が小さいんじゃないかとあまり乗り気ではなく、事業対象者にもしなかったので、今回、新作と併せて上映という運びになっていることに僕は少し驚いた。
 スクリーンで観た『はがね』は、ビデオで観たときに想像した以上に緊密感があって、イメージの喚起力が増していた。滅びゆくもの、死にゆくものに惹かれる者の詩情が漂っていて、なかなかの作品だと思う。ぜんまい仕掛けの玩具のゴジラが車に敷かれ壊れたときに、この作品で生命を示す重要なモチーフとして扱われていた魚を何匹も、壊れ散乱する玩具の残骸に重ねた映像やら、赤錆びた金属にはぬくもりが感じられると、ゴミと化して打ち捨てられ錆ついたボルトやナットを手に「生き物が死んで冷たくなってゆくのとは逆に、このはがねたちは暖かく死んでゆくのだろうか…」と呟く老画家が登場する。錆で剥がれる塗料の層を樹皮に見立てたり、『はがね』において、有機物と無機物との境界はなく、はかなく哀しくも美しいイメージが展開される。とりわけ老画家と少女の存在感がこの作品を成功させている。
 次の上映に先立ち、監督へのインタビュ−が40分ほどあったが、そのなかで中嶋氏は、脚本よりも絵コンテから始めると語っていた。そう言えば、『はがね』のなかで登場した絵本は、エンドクレジットからは中嶋氏の手によるものだったようだが、鮮やかなものだった。映像表現としての優れた映画作品は、優れた脚本で保証されるものではないとも思っていて、それを教えてくれたのが、高校時分に学校をさぼって入り浸った今はなき古ぼけた映画館「名画座」だそうだ。そこで出会った過去の名作やアメリカでない様々な国の作品群の持っていた映画の力が源泉となって、今に至る映画製作への熱意を支えているとのことで、かの映画館は自分にとってとても大切な場所だと語っていた。
 続いて、今回が初上映になるという完成したばかりの新作『箱−The BOX−』が上映された。前作のコンセプトを継承した長編第二作で、立方体の転がる箱をモチーフにしたモノクロ作品だ。「疲れ切った樹木」と題する前編とその一年後「植樹」と題する後編によって構成されていたが、映画としての緊密度やイメージの喚起力という点では随分と見劣りがした。続けて観たせいもあるかもしれないが、鉱石の夢を形にしようとして未だなし得ないと呟く老科学者は、工場の絵を描くのに、生命を与える花びらの雪が舞い降りるのを待ち続けて、結局は絵筆を取れないままに逝った老画家の焼き直しだし、壊れた箱の残骸の埋葬は、壊れた玩具の残骸の埋葬の焼き直しだ。原石としての鉱石に生命を感じとったり、造花を花壇に植えて水をやる女性の姿には、確かに前作のコンセプトの継承が窺えもするが、コンセプトの継承と焼き直しは違うはずなのに、老人と子供と女性という人物構成が同じなら、高速度で流れる雲の映像を使うところまで同じという有様では、いかにも新味に欠ける。前作の圧倒的な工場のイメージに対応するのは、埋葬された箱の塚から生え出した異形の樹木で、少女が舗装道にチョークで描いた連なる絵を踏み辿る姿に逆進する人々の映像に込められた“時の流れ”の感覚は、転がる箱なり巨石の辿る線路のイメージに対応しているのだろう。
 しかし、何よりも不満だったのは、新作で現実感からの遊離を意図しておこなったと思われるモノクロ画像におけるホワイトバランスの変調が、前作のアーティスティックな映像に匹敵するほどの効果を僕にはもたらしてくれなかったことと、やや上滑りだったとは言え、それなりのきらめきと結実を果たしていた言葉が、今回はすっかり痩せ細っていること、前作で見事に息づいていた老画家と少女のような存在感が、新作の人物に対して感じられなかったことだった。それでも、観終えて、ある種の寂寥感が残るところなど、捨てがたい味もあり、次作に期待したいところだ。
by ヤマ

'02. 4.13. 県立美術館ホール



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