『禅 ZEN 』
監督 高橋伴明

 遠い日の高校の日本史で鎌倉時代の仏教改革を学んだときに、他力本願・来世利益の浄土教よりも自力本願・現世利益の禅宗のほうに惹かれた覚えがあって、道元の「只管打坐」という言葉は、ずっと記憶に残っていた。そのせいか二十代の頃にたまたま知り合いから誘われて坐禅道場に行ったこともある。結局一度きりだったが、一度で懲りて止めたというわけではない。それで言えば、むしろ非日常とも言うべき時間の過ごし方としての特別感が新鮮だったような覚えがある。ただ坐るだけと馬鹿にしたもんじゃないと思ったのは確かだ。それでも続けていくことを選ばなかったのは、ただ坐る時間というものにより特別感を与えてくれるほうでの時間の過ごし方を当時の僕が求めていたからだろうと今は思っている。そもそも坐りに行った動機が「やったことのないことは機会があれば逃さないようにする」との若い好奇心にあって、坐禅を組むこと自体に何かを求めていたわけではなかったからだ。禅問答という言葉は余りいい意味で使われることはない言葉だけれども、僕には妙に格好よく響いてくる感じがあって、きちんと公案に当たったりはしなかったけれども、外したようで鋭く的を射ている変哲を備えた返答といったものに惹かれる傾向は非常に強かった。

 そんな経験があったことが作用しているかもしれないが、予告編を観て思ったよりも面白い作品だった。中村勘太郎の“華のなさ”というものが、描かれていた道元のキャラクターによく合っていたように思う。それにしても1223年から僅か四年の中国留学で帰国して1253年で入滅する三十年で、よくやったものだと感心した。二十歳過ぎの四年間ということなら、ちょうど僕が大学進学で東京に滞在していた期間と同じだ。僕のほうは、1976年から僅か四年の東京滞在で帰郷して2006年で三十年になっていて、まだ存命だが、解脱どころか弟子の一人も得てはない。もっとも道元には得られてないであろう孫は、既に一人得ているけれども。

 映画で印象深かったのは、月が意匠を凝らして描き出されていたことだ。丘陵地の稜線の上に立つ姿を包み込むようにして大きく画面の右上に輝いていた宋の月、おりん(内田有紀)の案内で上った山間から見下ろす棚田の数々に映っていた京都の月、執権北条時頼(藤原竜也)に斬ってみなされと告げた鎌倉の月。全体的には、随所にCG処理を取り入れながらも、人工的な造形感ではなくむしろ自然のほうを印象づけ、悠久を感じさせる絵作りをしていたことに、大いに感心した。道元が悟りを開くシーンに到っては、蓮華坐に乗って天空に飛翔する道元のイメージが映し出されたりするし、ラストでも道元の教えに従って只管(ひたすら)坐れば、組んだ脚の上で結んだ印相のなかに道元が鎮坐する映像を持ち出したりしているにもかかわらず、作品全体の印象としては、外連味よりも静謐さのほうを残していたような気がするが、そこにも中村勘太郎の“華のなさ”というものが大いに貢献していたように思う。

 宋から帰国した道元が、先ごろ岡山県立美術館で特別展を観てきたばかりの「建仁寺」にいたとは全く知らずにいたが、高校の卒業アルバムの編集委員として、自分のクラスのページの標語のような言葉に、上杉鷹山の名言として知られる「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」をもじって成れば成る 成らねば成らぬ 何事も 成るも成らぬも 事の成行き ~自然流~などと記して担任の顰蹙を買ったことがある。差し替えとまではならずに僕の高校の卒業アルバムには、しっかとこの言葉が印刷されているのだが、もしかすると少し禅宗に惹かれるような気持ちを当時持っていたことが作用していたのかもしれない。「あるがまま、自然の流れに身を任せ、ただ坐るのみ…」と中村勘太郎が淡々と語る言葉を聴いていて、ふと思い出した。また、この映画での道元の台詞として出て来た教えの「知足」という言葉は、一方で好奇心旺盛な貪欲を指摘されることの多かった僕が、若い頃からわりと馴染みのある感覚でもあったように思う。それもあってか、昔はよく「上昇志向に乏しい」と怠け癖をたしなめられることが多くて閉口したものだ。そんなこともあったからか、言葉を聴いていても少々嬉しい、僕には都合よく気持ちのいい作品だった。
by ヤマ

'09. 8.22. 民権ホール



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