原作小説『朗読者』を読んで
ベルンハルト・シュリンク 著
松永美穂 訳 <新潮文庫>


 映画化作品を観てから少し経って原作を読んでみたら、映画で印象的だった場面の尽くが原作にはシーンとして描かれていない場面であることに驚かされると共に、それでいて原作が描き訴えていたことの総てを完璧に描き出すばかりか、その主題を原作以上に踏み込んで描き出している脚色の見事さに改めて感嘆させられた。

<1958年15歳の冬>
 第一章の1958年のハンナとの出会いにおいて、原作を読むことで映画を観たとき以上に印象づけられたのは、ハンナが早番で乗り込む始発電車にミヒャエルが乗車した電車のシーンの重要性だった。ハンナの若きミヒャエルに対する気後れがミヒャエルの記憶に残る形のエピソードになっていて、後のミヒャエルの計画した小旅行の場面の意味づけを鮮明にすると共に、対照性を強く打ち出す効果を果たすばかりか、僕が映画を観たときに受け止めた二人の“意識のズレないしは擦れ違い”は、ハンナの受刑中の時間において強く印象づけられたものだったが、原作では、まさしく第一章の主題がそこのところに置かれていて、それを端的に描出した場面がこの電車のシーンだった。
 映画も運びとしては、そこのところを忠実になぞりながらも、原作ほどには強調せずに、後の時間の経過のなかにおいて、より深く重みのある形で描き出していたわけだが、ミヒャエルに深い痕跡を残したハンナの姿を映画的に刻み込むうえでも、また長き時間に渡る二人の関係を見渡すうえでも、的確な選択だったように思う。映画では、ハンナの支配性を直接的に描出していた原作よりも遥かに、15歳のミヒャエルにとっての甘美と彼の男としての育ちのほうに描写の力点を移行させていたが、それも同様に、的確で効果的な選択だ。
 また、原作の第一章では、文盲と同様に収容所の看守歴の痕跡描写も積極的に行われていたが、第一章での明示は、どちらも共になかった。ミヒャエルの一人称で語られる原作が回想形式であるにしても、1958年時点で明示するはずもないものであり、映画化作品もまた周到にそこのところは避けていたわけだ。そうしたうえで原作小説では「彼女が脅しでもすると、ぼくはすぐに無条件降伏した。何でも自分のせいにした。自分が犯してもいない過ちを認めたり、一度も思い浮かべたことのない目論見まで告白してしまったり。彼女が冷たく、厳しくすると、ぼくは、もう一度優しくしてほしい、ぼくを許して愛してほしい、と懇願した。ときには、彼女自身が自分の冷めた感情、固くなった心のことで苦しんでいるのではないか、という気がした。だから、ぼくに詫びさせたり、請け負わせたり、誓わせたりして、心を暖めようとしているのだろうか。ときには、彼女がぼくに対して勝ち誇っているような気もした。でも、どちらにせよぼくに選択の余地はなかったのだ。」(P60)というハンナの様子が描かれていた。
 さらに映画では、原作の第一章で最も強烈な場面とも言える、怒ったハンナがドレス用の細い革ベルトでミヒャエルの顔を鞭打ち、彼の唇が裂けて血を流すのを見て、彼女がミヒャエルに初めて泣く姿を見せてしまう場面がカットされ、原作にはなかった屋外でのキス場面が、同じ小旅行のエピソードとして脚色付加されていたわけだが、その落差の大きさには恐れ入るとともに大いに感心した。また、ハンナの突然の失踪による別れの後に、ミヒャエルが素っ裸になって脱いだ服をきちんと折り畳んで水に入っていくシーンも原作にはなく、“文学における行間の重要性”に触れた授業の場面もなかった。

<ホロコースト裁判>
 原作の第二章は、ハンナのホロコースト裁判での二人の再会を描いていたが、ミヒャエルは、この裁判を傍聴するまでハンナの二つの秘密に気づいていないことになっていた。ミヒャエルがハンナの文盲に気づいたのは、裁判の過程で彼女が筆跡鑑定を避け、報告書を書いたと認めたことへの疑問からで、ハンナが筆記用具を手にして法廷で強張る場面は原作にはない。そして「ハンナの場合、読み書きできない恥ずかしさがほんとうに裁判や収容所での態度の原因なのだろうか? 字が読めないことを隠すために犯罪者であることを自白し、文盲が露顕するのを恐れて犯罪を犯したのか? 当時も、その後も、ぼくはどんなにしばしば同じ問いを考えてみたことだろう。・・・彼女は単に愚かなのだろうか? そして、露顕するのを避けるために犯罪者になるほど、見栄っ張りで性悪なのだろうか? そんな考えを、ぼくは当時もその後もはねつけてきた。・・・ハンナは犯罪を犯そうと決心したわけじゃない。彼女はジーメンスでの昇進を受けない決心をし、看守の仕事に収まっただけだ。そして、繊細な子や弱い子たちを、自分に本を読んでくれたからという理由で(文盲の秘密を守るために)アウシュヴィッツに送ったわけでもない。彼女がその子たちを選んで朗読させたのは、どっちみちアウシュヴィッツに送られてしまう前に、最後の一ヶ月だけ楽をさせてやりたかったからだ。そして、裁判のあいだも、文盲の露顕と犯罪者としての自白とを秤にかけていたわけじゃない。彼女には計算や策略はなかった。自分が裁きを受けることには同意していたが、ただそのうえ文盲のことまで露顕するのは望んでいなかったのだ。」(P154)とのミヒャエルの思いが吐露されていた。
 そして、看守時代のハンナについて想像しつつ15歳のときの記憶に残る彼女の姿を思い出し、ハンナを捉え理解できない混乱と不安に見舞われていた。「ぼくはハンナが燃える教会のそばで、厳しい顔をし、黒い制服と乗馬用鞭を持っているのを見た。・・・ぼくは彼女が、本を朗読させている様子も思い浮かべた。・・・ぼくはハンナが、収容所の中の道を歩いていき、囚人たちのバラックに入って建設作業を見張っているところを見る。彼女はどんな仕事のときも厳しい表情をしており、冷たい目で唇を細く引き結んでいる。・・・ハンナは、その中に立って命令を怒鳴る。醜くゆがめた顔で、鞭を鳴らしながら。・・・そんな光景のほかに、別の光景も浮かんできた。台所でストッキングをはいているハンナ、浴槽の前でバスタオルを広げているハンナ、スカートを風になびかせて自転車をこぐハンナ、父の仕事部屋に立っているハンナ、鏡の前で踊るハンナ、プールで僕の方を見ていたハンナ。ぼくの声に耳を傾け、ぼくに話しかけ、笑いかけ、ぼくを愛してくれるハンナ。光景が混じり合ってしまうと悲惨だった。冷たい目で細く結んだ唇でぼくを愛するハンナ。無言でぼくの朗読に聞き入り、しまいに手で壁を叩くハンナ。ぼくに話しかけ、顔を醜くゆがめるハンナ。一番ひどいのは夢の中で、厳しく支配的で残酷なハンナがぼくを興奮させるときだった。目覚めたぼくはあこがれと恥と憤りにかられ、自分が何者なのかと不安になった。」(P168)と原作に綴られたミヒャエルの混乱と苦衷は、映画のなかでも裁判を傍聴しながら頭を抱えてうつむく彼の姿とフラッシュバックされる八年前のハンナの姿によって忠実に映画化されていたように思う。
 法学教室の教授は、映画と違ってほとんど登場せず、僕が印象深く聞いた「若い連中が我々人生の先輩の経験から学ばないで何の意味があるというのだ。」という映画での教授の台詞は、原作では誰からも発せられることのないものだった。その代わり、原作には、ナチス世代の受け止め方に苦しむ戦後世代の姿が詳述されていた。苦しい裁判の傍聴を続けていたミヒャエルが、その苦悶にまみれた思考のなかで、ナチス世代がその当時に見舞われていたものと重なる部分を意識しつつ辿りついたキーワードが“麻痺”だったような気がする。映画のなかの教授の台詞は、そういった事々を包括して主題提示としたものだったようだ。
 そして原作には、ハンナへの面会の申し入れとそのすっぽかしというエピソードがなかったことに驚くとともに、ミヒャエルの自責ないし罪悪感が、15歳のときの別れを招いた彼のハンナに対する欺きへの囚われの思いのほうにあって、ハンナには報告書が書けないことを証言しなかった行為に対してではなかったことにも意表を突かれた。証言を迷いつつも果たさなかったことには、哲学者たる父の「彼女の選択の“自由と尊厳”を犯すべきではない」というような助言が作用した形になっていた。ぼくの故郷の町を去ったときにハンナにとって問題だった事柄と、ぼくが当時想像し思い描いていた別離の理由とが全く違っていたという事実は、妙にぼくの心を動かした。ぼくは、自分が彼女を欺くような行動をとったので、彼女を追い出すことになってしまったのだ、と確信していたが、実際は彼女はただ市電の会社で文盲がばれるのを避けただけなのだ。もちろんぼくが彼女を追い出したわけでないとわかっても、彼女を欺いた事実がそれで変わるわけではなかった。つまりぼくは有罪のままだった。そして、犯罪者を欺いたことが罪にならないとしても、犯罪者を愛したことが罪になるのだった。」(P155)というような自責ないし罪悪感をミヒャエルが負っていることには、むしろ違和感のほうを触発された。ドイツの戦後世代にとって、それだけナチス問題は重く、強迫的だということなのだろう。ミヒャエルが裁判の傍聴を始めたばかりで、まだハンナの文盲に気づいていない時点で「ぼくは、自分がハンナの拘留を当然のことであり正しいこととみなしていたのに気づいた。告訴のせいでも、ぼくがまだぜんぜん詳しく聞いてもいない非難の重さや疑惑の強さのせいでもなく、彼女が拘置所にいれば、僕の世界、僕の生活の外にいてくれることになるからだった。ぼくは彼女がぼくから遠く、届かないところにいてくれることを望んだ。そうすれば彼女は、この何年かのあいだそうであったように、単なる思い出であり続けるだろう。」(P114)との思いが、裁判を傍聴し、ハンナが毅然たる態度で自認と抗弁を全うする姿を見続けて、彼女の文盲に思いが到るなかで、ミヒャエル自身が大きな葛藤を抱えるよう変化していったのだった。映画化作品を観て、バーグの悔恨にしろ、ハンナの看守歴にしろ、肌を合わせて読んだ朗読体験にしろ、ホロコースト裁判の傍聴にしろ、更には、小旅行での屋外キスのハンナに残したものにしろ、この作品を眺め渡すうえでのキーワードを“痕跡”と受け止めて僕にとっては、裁判傍聴前のミヒャエルにとってのハンナの存在が“単なる思い出”だったことが意外に思われるとともに、映画化作品ではそこまで深くは思いの及んでいなかったドイツにおける戦後世代にとってのナチス問題の重さというものを再認識させられたように感じられた。そして、一人称物語のなかでミヒャエルが抱えている葛藤を映画化作品では、同じく裁判を傍聴してナチスの戦争犯罪に加担した人をファナティックなまでに糾弾するゼミ学生を登場させることで、ミヒャエルの煩悶に留まらないドイツの姿として提示していたわけで、その脚色の巧みさに重ねて感心させられた。

<裁判の後>
 原作の第三章は第二章を受けて、まさしくナチズムという過去との対決が“集団罪責”をキーワードにして語られることから始まり、ハンナを愛することによる苦しみが、ある程度ぼくの世代の運命でもあり、ドイツの運命を象徴し、そしてぼくの場合はそこから抜け出たり乗り越えたりするのが他の人よりむずかしいのだ」(P196)と語られる。そして、裁判の傍聴を通じて見つめ直すなかで罪悪感との葛藤が増幅させる形になって却って深く刻み込まれたハンナへの愛の記憶が今度こそ“痕跡”としてミヒャエルのなかに巣くうようになったのだと感じられた。妊娠を契機に結婚した妻と一緒に過ごす時間を、ハンナと一緒に過ごした時間と比べずにいられないミヒャエルの回想が「ゲルトルートと抱き合っているときも、何かが違う、彼女ではない、彼女のさわり方、感じ方、匂い、味、すべてが間違っていると思わずにいられなかった。そんな感覚は、いつかは消えるだろうと思っていた。消えることを望んでいた。ぼくはハンナから解放されたかった。しかし、何かが違うという思いは、けっして消えることがなかった。」(P197)と生々しく記されている。
 驚いたのは、映画化作品のなかでハンナに朗読テープを送る契機になっていた書物名リストの記録が、原作では、15歳のときのものではなくて、朗読テープを送り始めてからのもので、それが彼女の恩赦が認められるまでずっと続けられ、十年間に及んでいるばかりか、ハンナが識字を得て手紙を送ってくるようになってからも朗読テープを送り続けていたことだった。そして「たいてい、自分がちょうど読みたいと思っているものをハンナのために朗読した」という書物の選択の仕方だった。ここでも、15歳のときのことは、映画化作品ほどには思い入れが込められていない。原作での最も重要な場面は、明らかにホロコースト裁判のほうであって、映画化作品のように、二人の出会いのときと法廷での再会とが拮抗しているわけではなかった。そして当然ながら、ハンナが送られてくるテープの最後の作品であることを感知して図書室の書物に手を伸ばし、識字に向かうための印付けを始める場面は登場しなかった。映画化作品のこのハイライトシーンは、やはりそのためだけに用意されたものだった。
 気になっていた面会場面は「ぼくは彼女の顔に浮かんだ期待と、僕を認めたときにその期待が喜びに変わって輝くのを見た。近づいていくと彼女はぼくの顔を撫でるように見つめた。彼女の目は、求め、尋ね、落ち着かないまま傷ついたようにこちらを見、顔からは生気が消えていった。ぼくがそばに立つと、彼女は親しげな、どこか疲れたようなほほえみを浮かべた。」(P220)という形で始まっていた。
 そして交わされた会話の全てが
「大きくなったわね、坊や」
「出所できると聞いてうれしいよ」
「ほんとに?」
「そうだよ、それに、近くに来てもらえるのもうれしいよ」
〜見つけたアパートと仕事の話、その地区の文化的・社会的催しや市立図書館の話〜
「本はたくさん読むの?」
「まあまあね。朗読してもらう方がいいわ」
「それももう終わりになっちゃうのね?」
「どうして終わりにする必要がある?」
「君が字を読めるようになって、とてもうれしかったし感心したよ。なんて素敵な手紙を送ってくれたんだろう!」
「裁判で話題になったようなことを、裁判前に考えたことはなかったの? ぼくたちが一緒にいたとき、ぼくが君に本を朗読したとき、そのことは考えなかったの?」
「それがとても気になるわけ?」
わたしはずっと、どっちみち誰にも理解してもらえないし、わたしが何者で、どうしてこうなってしまったかということも、誰も知らないんだという気がしていたの。誰にも理解されないなら、誰に弁明を求められることもないのよ。裁判所だって、わたしに弁明を求める権利はない。ただ、死者にはそれができるのよ。死者は理解してくれる。その場に居合わす必要はないけれど、もしそこにいたのだったら、とりわけよく理解してくれる。刑務所では死者たちがたくさん私のところにいたのよ。わたしが望もうと望むまいと、毎晩のようにやってきたわ。裁判の前には、彼らが来ようとしても追い払うことができたのに」
「結婚はしてるの?」
「していたんだけどね。ゲルトルートとはもう何年も前に別れたよ。ぼくたちの娘は寄宿舎に入っている。最終学年になったら、寄宿舎にいないで、ぼくのところに引っ越して来てくれればいいなと思っているんだよ」
「来週迎えに来るよ、いいね?」
「ええ」
「静かに来ようか、それとも少しにぎやかに、愉快にしようか?」
「静かな方がいいわ」
「わかった。静かに、音楽もシャンペンもなしで迎えに来るよ」
「元気でね、坊や」
「君も」

であった。
 ミヒャエルはハンナが“学んだこと”の何も問わずにいたし、互いに相手のコメントや質問を待ったときには、沈黙しか返せない噛み合わなさが記されていた。そして、原作と同じくハンナの墓参りで終える物語において、原作にはないバーグの娘の同行を加えることで、原作におけるメインテーマである“過去ないし歴史に対する世代間における痕跡と距離の持ち方”について、原作で直接的に表現されていた内省よりもむしろ、その底流に窺える未来に向けた視線を汲み取っていたような気がする。第二章で登場した法学教室の教授に映画では「若い連中が我々人生の先輩の経験から学ばないで何の意味があるというのだ。」と語らせる台詞を脚色していたことの意味はそこにあるのだろう。そればかりか、エンディングそのものを世代間における“語り継ぎ”を偲ばせる場面にすることによって、原作の主題の核心を描き出すとともに、原作小説以上に豊かな余韻を残していたように思う。全く以って見事な脚色というほかない。
 また、今回原作小説を読んだことで、一人称語りの回想体による原作では表現しきれないハンナ自身の心境や人物像について、原作より遥かに踏み込み膨らませて語りつつ、その謎めきを損なわない絶妙の加減で人物造形が果たされていることが確認できた。そうして創り上げられた人物像には忘れがたい存在感が宿り、まさに、これこそが、映画化作品で印象深く残った「文学の核は神秘性だ。どんな人物なのか全ては描かれない。だから、行間を読み、人物像を思い描かなければならない」という台詞創作の意味についての“映画の作り手たちによる回答”であることを確認できた。
 世界の中心で、愛をさけぶを観たときにも思ったが、優れた映画化作品における原作の脚色には、単に映画の作り手としての創造性の発揮ではないアンサームービーの部分が原作に対するリスペクトとして込められている気がする。そういう意味でも『朗読者』の映画化作品としての『愛を読むひと』は、白眉の脚本だったように思う。実にたいしたものだ。
by ヤマ

'09. 8. 8. <新潮文庫>



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