『この自由な世界で』(It's A Free World)
監督 ケン・ローチ


 基軸通貨を有するアメリカン・グローバリズムが世界を席巻した「この自由な世界で」は、いずこも似たような形での労働搾取が広がっているのだと改めて思った。日本の日雇い派遣の姿と何ら変わるところのない労働現場が立ち現れ、不法移民の不法就労により労働ダンピングが広がっているようだ。容赦なき競争市場原理に基づく現場では、規制のハードルが下がれば下がるほど、より劣悪で過酷な市場が形成されるのが自由競争による市場原理の至る必然なのだろう。そして、最早かつてのように資本家対労働者のような単純な図式は成り立たず、弱肉弱食の食い潰し合いに追い込まれ、強者は別世界にいるのが「この自由な世界で」あるのだと思った。

 だが、随分と酷い労働現場と犯罪が描かれながら、性悪の敵役を振り当てられた人物が一人もいないどころか、誰もが全て哀れなる“資本社会の犠牲者”として印象づけられる作品になっているところが、ケン・ローチの真骨頂とも言える部分だ。だから、競争市場原理の元での“弱肉強食”の非情さが浮かび上がらずに、“弱肉弱食”の酷薄さのほうが沁みてきたように思うのだが、なかなかこのような物語を造形することはできない気がする。単に社会問題に寄せる関心の強さだけでは叶わないことで、確かな人間観とともに揺るぎない社会思想が背景に備わっていないと無理なのだが、声高に叫ばない品性の豊かさが、却って静かな憤りの強さを偲ばせているように感じた。

 アンジー(カーストン・ウェアリング)は、息子を拉致されたとの錯覚を与えられるなかで椅子に括り付けられて脅され、失禁するほどの恐怖を味わわされて不払いにしていた労賃を取り立てられるという手際のいい鮮やかな灸を据えられたのだが、それでも、彼女が手を染め始めた阿漕な労働派遣業は、その犯罪性を強めていっていたのだから、やはり彼女は行き着くところまで行ってしまうのだろう。結局、息子ジェイミー(ジョー・シフリート)にはスイート・シクスティーン['02]のリアムのような十代が待っているのだろうか。その時期を通り抜けるまでなんとか、彼の祖父(コリン・コフリン)には生き永らえていてほしいと願った。

 キーワードになるのは、やはりジェイミーの祖父が娘アンジーに語っていた自分さえよければ、他人は地獄へ堕ちてもいいのかとの問い掛けだろう。世界大戦後の20世紀後半において求められた“連帯”による世界構築への模索が、一時期は世界的規模で高まりながら、それにもかかわらず潰えたことで却って強い敗北感とアパシーを残し、シラケの時代を経て、競争というもっともらしい偽装を施しながら、その実、真っ当な競争などハナから排除した分断と搾取の仕組みを強者の論理で押し付ける社会体制をグローバルに押し広げてきたように僕は感じている。その事の顛末が今に至っているわけで、かつてソヴィエトの解体に際して寄稿を求められたときに今 私が思うこと「ソ連邦崩壊」』として綴った拙稿に記した体制としての社会主義が理念としての社会主義を何ら実現できていなかったことの証明になっているのに過ぎないとの歴史に学んだうえでの新たな社会体制および経済システムの構築をしなければならないように思っている。そして、ケン・ローチの問題意識もまさにそこにあるのではないかという気がしている。

 時あたかもアメリカン・バブルの崩壊により金融資本主義が敗れ去り、アメリカの企業国有化が起こり始めているようだ。戦後世界の二大帝国たる米ソが共に社会構造の変革を余儀なくされたわけで、21世紀モデルとして生み出されるべき社会のあり方は、少なくともこの百年近くの世界史のなかから事実に即して学び取るところから始めないと、いたずらに世界規模での荒廃を進めることになるだけのような気がする。
by ヤマ

'09. 2.25. 美術館ホール



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