『哀愁』(Waterloo Bridge)['40]
監督 マーヴィン・ルロイ


 とさピクこと“とさりゅう・ピクチャーズ”が遂に始めてしまったclassic picturesシリーズは、僕の予想のほぼ倍の集客だった。アンケートにもあったように、確かにクラシック作品を大画面で観る機会は本当に少なくなっている。客筋が圧倒的に高齢者であるのは、予想通りだったが、70~80代の幾人もの御婦人方が亡夫と観た昔を偲んで涙したとのコメントを寄せているのを読むと、スクリーンで観るからこそ自ずと二人で観た日のことを思い出すのであって、TV画面では味わえない込み上げがあるのだろうと思った。

 映画作品としては、まさに音楽でもそうなのだろうが、クラシックの名を冠するに相応しい“格調”というものに感じ入った。大学を卒業して帰郷してからの僕の映画鑑賞記録手帳に『哀愁』は残っていないので、未見作かもしれないと思っていたのだが、観てみると見覚えがあった。おそらくは、十代の頃のTV鑑賞だろうから、スクリーンでは初見になるはずだ。終盤の夜の橋を走る軍用トラックの列と歩道を歩くマイラ(ヴィヴィアン・リー)のクロスカッティングの緊迫感は、今でも大した力を持っていると感じた。

 それにしても、昔のハリウッド映画は、まさしく古典的美女とも言うべき美人揃いだ。ヴィヴィアン・リーもさることながら、マイラの友人キティを演じたヴァージニア・フィールドを含めたバレエ団のダンサー達のいずれもが堂々たる美人だったように思う。とはいえ、際立つ印象を残すのは、やはりヴィヴィアン・リーだ。思いをつめたときにキュッと硬くなる表情の変化がなかなか見事で、当時、二十代半ばなのだろうが、今時の二十代半ばとは違う“幼さのない若さ”に魅せられた。それこそ僕が二十代の時分に、『ハノーバー・ストリート/哀愁の街かど』('79)を観て、そのクラシカルな雰囲気に惹かれ、元ネタになったらしい『哀愁』を観たいと思っていたことが、三十年近く経って叶ったことになる。大いに満足した。

 '40年と言えば、第二次大戦へのアメリカ参戦の前年だ。既にヨーロッパ戦線が始まっていればこそ、第一次大戦に材を得て恋愛映画を撮っているわけで、全く以って余裕の構えだ。雨のなか、残りわずかな休暇のなかでバレエの踊子の宿舎を訪ねてきた英国軍将校ロイ・クローニン(ロバート・テイラー)の姿を観留め、前庭に出たマイラが立ち木の傍らで、差していた傘を後ろに倒して小雨に濡れながら首を傾けてキスを交わす立ち姿のフォルムが実に美しく、これぞ黄金のハリウッド・クラシック・スタイルだと観惚れていた。そして、今の時代にはない生真面目さが根底に据えられている人間観の美しさに少々眩しさを覚えた。露見するしないに因らない“取り返しのつかなさ”に対する感覚は、今の時代、少しは取り戻したいところのあるものだというふうに感じた。ロイの善良さが却ってマイラを苦しめ、遂には自死に追いやった顛末が何とも切ない。

 物語の全てが、時を経て久しぶりにウォータールー橋を訪れたロイが川面を眺めながらの回想として語られているのだから、マイラの秘密それ自体は結局ロイの知るところとなっているわけで、そのうえで長き年月を経てなお彼の偲ぶ女性であり続けたマイラなれば、ロイの胸中においてもまた、先に知っていればという意味での“取り返しのつかなさ”による悔恨があるということなのだろう。マイラがロイに託して手放した御守りを彼女自身が持っていれば、彼女の側に“取り返しのつかなさ”をもたらす不幸は訪れなかったのかもしれないなどと思いつつ、彼女の御守りを預かってなければ、自分のほうが戦場の露と消えていたのかもしれないと思わずにはいられないなかで偲ぶ亡きマイラへの想いなればこそ、時を経ても失われることがなかったのだろうと思う。




推薦テクスト:「映画ありき」より
https://yurikoariki.web.fc2.com/film_1.html
by ヤマ

'09. 2.18. 美術館ホール



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