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『ハンサム★スーツ』 | |||||
監督 英 勉 | |||||
テンポよく楽しく後味も気持ちのいい作品だった。原作漫画は、きちんと読んだことがないけれど、もっとエロ系が入っていたように思うから、設定は同じでも、かなりテイストを違えているのではないかという気がする。 大木琢郎(塚地武雅)か光山杏仁(谷原章介)かということでは、どちらかと言えば、などという曖昧さの余地なく明らかに大木琢郎側にいる僕には、「豚郎」ではないが「ヤンブー」とか「ぶーちゃん」と呼ばれていた時期があり、小学高学年だったか中学だったかの時分に、自分への女性からの形容として生涯縁のないものだろうと確信していた五つの形容句がある。五十歳になる今でもはっきりと覚えているのだが、“かっこいい・スマート・運動神経がいい・モテる”、そして、この映画のネタになっている“ハンサム”だ。そんな僕でも、高校の卒業式の日に新聞部の後輩から「先輩との記念写真を撮らせてほしいと言ってる友達がいるから」と屋上に呼び出され、顔見知りではあったものの、そう親しく話したこともなかった女生徒と並んで写真を撮った後、制服の第二ボタンを求められて吃驚したことがあり、後年、五つの形容句のうち四つまでは、少年の日に抱いた確信にもかかわらず、幾人かの奇特な女性たちのリレーにより冠せられる経験を得るに至って、人間、生き長らえてみるものだと思った覚えがある。だが、今だに一度も言われることなく来ていて、今後もないだろうと確信しているのが、この“ハンサム”だ。ブサイクにとってハンサムは、それだけ遠く異世界のものであるから、ハンサム・スーツを手に入れた琢郎の舞い上がりようと、なかなか着こなせないでいる困惑が、我が事のように分かって可笑しくて仕方がなかった。 しかし、この作品が素敵なのは、外見に囚われ惑わされる者の悩みのみならず、本意ならずとも外見で惑わしてしまう側の失意をも描いていたことで、併せて、外見的に秀でている者の内面を卑しく描いていないところに作り手の見識を感じた。寛子(北川景子)のみならず、來香(佐田真由美)にも嫌な性格付けを一切していなかったが、僕の生きてきた時間のなかで出会った人々を見る限りにおいても、外見的に秀でたものを備えている人は、それが容姿容貌であれ、金銭的豊かさであれ、頭脳的なものであれ、むしろそれに応じた自意識を涵養していて人間的魅力も備えていることが多かったように思う。そうでない場合も無論あろうし、外見的に見劣りがすると必ず内面的にもつまらないということでは決してないけれども、貧すれば鈍しがちなのは、何も金銭的な“貧”に限った話ではないと僕は思っている。 そういう点から言えば、琢郎の不細工は、実は性根の不細工だったという作品になっている気がした。性格は優しくいい奴なのに、唯一不細工な性根というのが、言うなれば、容貌体型の貧に鈍した“ひがみ根性”なり“いじけ根性”だという描かれ方がされていたように思う。ひがんだりいじけたりするのも無理からぬ経験や事情があったにしても、やはりひがんだ根性やいじけた根性のブサイクそのものは、その理由の已む無さによって減じられるものではないわけで、琢郎にそのことに気付かせる存在となった橋野本江(大島美幸)がとても素敵だった。口調と所作に器の感じられる味わいがあったように思う。そして、彼女の人間的魅力がその不器量という“ハンディを抱えているがゆえに得られたもの”とはしていないところが、とても気が利いているように感じられた。かつて『八日目』を観たときに日誌に綴った「無垢なる魂の持ち主として、知的障害者にある種の役割が負わされること」にも似た、不器量に善良な役回りを押し付けるような不躾な真似をしていないところが、不器量組に属している自分から観て、大いに納得感のあるところだった。 寛子のこぼす“外見ばかりに注目され、内面に目を向けてもらえない失望感と心許なさ”については、大学時分に弟から「医大に入るまで全くモテなかった自分がバレンタインデーや誕生日には、生年月日を教えていない人からのも含め、誰が何をくれたのか覚えられないほどのプレゼントを貰うようになって、煩わしいばかりか冗談抜きに女性不信に陥りそうになっている」と、真顔で困惑と不安を告げられ、気持ちの構えようを相談されたことがあり、おかげで僕の側の“狙われざる者の気楽であれる有難味”というものに気づかせてもらった覚えがあるし、モテるということとは違っても、人から僕が褒められる際には、幼少時から決まって“頭がいい”という賛辞ばかりで、「それって頭をよく生んだ両親の業績・功績であって僕を褒めていることにはならないのに、なぜ大人はそういう褒め方しかできないのだろう」と強く不満を抱いた小学生時分の記憶があるので、自身の自覚と取組みによって獲得したものには全く目を向けてもらえない寂しさという点では、寛子の思いに対し、どこか通じるところのあるもののように感じた。いずれも大概の場合、他人からは“贅沢な悩み”などと一笑に付され、取り合ってもらえないとしたものだが、当人にとっては意外と深刻だったりする。先ず以って“悩み”として認知してもらえない孤立感があるし、悩んでいるにもかかわらず、同情されるどころか贅沢だと責められることで、自罰なり自責の促しを抱え込まされるのだから、当時の僕が、子供心に不条理と不当感を抱いたのも一理あるとは、今でも思っている。 考えてみれば、寛子も琢郎も異性からは、外見の強烈さによって内面に目を向けても貰えないという点で、似た者同士であったわけだ。そのなかで、寛子は、自分が外見のせいで内面に目を向けて貰えない寂しさを知っているからこそ、琢郎の外見には囚われずに内面に目を向けて惹かれたのと同様に、琢郎もきっと自分の外見だけには惑わされずに内面に目を向けてくれるはずだと思っていたのが損なわれたから、大きく失望したのだろう。彼女の「がっかりしました」との台詞は、そういうことのような気がする。正反対に見えて、ある意味、同じような目に遭ってきたと言える二人なのだが、寛子が気づきを得て、琢郎は気づくことができないままだったという違いを生み出したのは、まさしく琢郎の性根の不細工とも言うべき“ひがみ根性”なり“いじけ根性”であった気がしてならない。僕が、生涯“ハンサム”という形容句に縁のないブサイク組なのは仕方がないにしても、性根のほうでの不細工たる“ひがみ根性”なり“いじけ根性”には陥りたくないものだと改めて思った。 推薦テクスト:「映画通信」より http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20081102 推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2008hacinemaindex.html#anchor001817 | |||||
by ヤマ '08.11. 3. TOHOシネマズ6 | |||||
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