『4ヶ月、3週と2日』(4Luni,3Saptamini Si 2Zile)
監督 クリスティアン・ムンジウ


 ソ連の後ろ盾がなくなったときに惨殺されたチャウシェスク大統領が敷いていた独裁政権末期のルーマニアを舞台にした作品だったが、ちょうど今から20年前となるその時代の女子学生の苦境を描くとともに、男という性との深い断絶を余すところなく捉えていて、いささかシンドイ作品だった。
 冒頭の友人たちを頼って密かに金策を練るオティリア(アナマリア・マリンカ)の姿に、高校時分に同じような趣旨で奔走していた女生徒がいたことを思い出した。当事者が誰であるかが知られないように、密かに募金をしていることが親や教師といった大人たちに露見しないように、注意深く、しかし、急いで事態の打開を図ろうと奮闘している姿には、ちょっと近寄りがたい緊迫感があり、とても凛々しくかっこよかった覚えがある。幾ばくかの金銭的協力をしたものの、事態がいつどういう顛末を迎えたかも僕は知ることなく、話題としても暗黙の封印を課せられたものになっていたような気がする。だから、僕は、そのとき何が起こっていたかを一切承知せずにいたのだが、この作品を観て、かつて彼女たちが見舞われていたであろう不安と緊張、孤独というものを三十余年の時を隔てて見せられたような気がした。非合法ではなくてもあれだけの緊迫感を漂わせていたのだから、独裁政権下での闇堕胎となると尚更だ。観ていて息苦しくなるほどの緊迫と不安と焦燥に、いささかの弛みも来ない画面が見事だった。こういう作品を観ると、中絶を法律で禁止するなどというのは、とんでもないことだと改めて思う。同じ闇堕胎でも三ヶ月を越すと罪が重くなるなかでの怪しげな施術を生々しく描出し、「4ヶ月、3週と2日」での強制早産で産み出された胎児を映し出し、集合住宅の屋上ダストで処分するところまで敢えて映し出すのも、そこに意図があるからに他ならない。
 闇堕胎を扱った映画ということで思い出される『ヴェラ・ドレイク』('04)も『主婦マリーがしたこと』('88)も、孕む性の犠牲的側面が強くて気が滅入り、日誌を綴らなかった覚えがある。綴ったのは、ホーマーがラーチ院長の後を継ぐに至ったサイダーハウス・ルール('04)くらいだ。その点で言えば、日誌に残しておきたくなったのは、孕む性の犠牲的側面を描くことよりも、むしろ、事態を打開する腹の据わった突破力を捉えていて、有無を言わせない力強さのほうを印象づけていたからではないかという気がしている。
 そして、この作品がオティリアを主人公にして、恋人(アレクサンドル・ポトチェアン)に対し一言も相談しないばかりか、男という性に対して深い断絶を抱いている姿を自明の前提として描くことで、容赦なく断絶を浮き彫りにしていたことが何とも強烈だった。恋人に訝しがられ、気取られて事態が露見するような綻びを招かないよう、招待された恋人の母親の誕生祝いパーティに出向いているときの二人の意識と感情のズレと断絶の際立ちは、それが二人のどちらにも責のないズレと断絶であるだけに、男女の間に横たわっている“深い淵としての断絶”をシンボリックに示していたような気がする。
 その一方で、ホテルに残してきた施術後の友人(ローラ・ヴァシリウ)の容態を気遣って入れた電話に返答がないことに、不安と動揺が極点に達していながらも、駆けつけたホテルでなぜ出なかったのかと問い質すと、電話器をベルの音の聞こえない別室に追い遣っていた友人が「静かに一人になりたかったから」と答えたことに怒り出しもしない彼女の靱さには、難題を抱え心身共に今いちばん過酷な状況に置かれているのが誰であるのかを見失わない毅然とした聡明さが宿っていて見事だった。遠い日に僕が感じた凛々しいかっこよさ以上に凛々しくかっこよかった。
 そのあと、ようやく少し落ち着いてきたところで先ず最初にするのが二人での腹ごしらえであるとの原初的な生命力の逞しさを示唆したラストシーンが、とても効いていたようにも思う。最も痛烈に断絶を浮かび上がらせていた先のパーティでの食卓とちょうど対になる鮮やかさに唸らされた。
 この作品の監督・脚本を担っているクリスティアン・ムンジウというのは、男性なのだろうか、女性なのだろうか。もし男だとしたら、実に驚くべきことだという気がする。


参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』ほか過去ログ編集採録


by ヤマ

'08. 8.26. 美術館ホール



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