『日常としての表象』
監督 澤崎賢一


 森村泰昌や松本俊夫を審査員に迎えた現代美術の公募展の最終審査展と審査員・作家らの参加する懇親パーティの案内を受け、出向いてきた。地元企業「インターナカツ」が2003年から行っているもので、一昨年からビエンナーレ展にするとともに全国公募展にしたことでの2回目の開催となるようだ。最終審査に残った16人の作家が四日間の制作過程とともに展示そのものを自ら担う、ライヴ感に富んだレジデンス形式の展覧会で、思いのほか、面白い作品が並んでいた。四日間の公開制作・展示・パフォーマンスを行った最終日の作家と審査員によるトークセッションを経て翌日に審査結果を発表し、二日間の完成後の展示・パフォーマンスを行うコンペ方法自体が刺激的で、若い作家たちにとっても恐らく手応えの大きい公募展なのではないだろうか。僕自身は今回いとまがなくて、五日目の完成後の展示と懇親パーティしか目にしてないが、それでも、非常に興味深く、高知の景気の悪さのなかでのメセナ活動として、その健闘ぶりには改めて感じ入るものがあった。

 16人のグランプリ候補者のうち、高知出身者は『walking in the crystal』を出品して準グランプリを受賞した苅谷昌江(28)一人で、四国で言えば、愛媛と徳島の出身者がそれぞれ一名いたが、16人のなかに四国在住者は一人もいなかった。今回グランプリM賞に輝いたのは、愛媛県出身東京在住の澤崎賢一(30)の『日常としての表象』だ。
 段ボールを切り散らした床の中程に小型のブラウン管テレビが置いてあって、アパートの一室のようなところで棺桶大の木箱に入って横たわったりするビデオ映像が流れていたのだが、メインの作品は、その粗雑に設えた空間の背後に壁を隔ててひっそりと、隠し部屋のように構えられた小空間で壁面スクリーンに映し出されている映像作品だった。化石の貝を思わせるようなプリミティヴな装飾性を感じる、文様とも立体とも言えないイメージがしばらく映し出された後に中央部が開口し始め、奇妙な空間のなかで一定のリズムで寝泊まりと作業を繰り返している男の姿が早送りで映し出される。巻き戻しの時間で映し出されている男の様子を観ているうちに、会場で寝泊まりして制作した四日間を映し出しているのかと思い、先ほどの切り散らした段ボールがその残骸だったのかと思いながら観続けていると、意表を突かれるものが現れ出てきた。てっきり今回の最終審査展の会場だと思っていたら、下宿アパートの一室で制作を始める前の生活空間だったのだ。閉めたカーテンのレールに針金ハンガーに掛けたシャツを幾つも吊し、安手の三段ボックスを重ねた、いかにも若い男の一人住まい然とした“日常性の権化”のような空間が現れて少々衝撃を受けた。
 懇親パーティでの来賓挨拶において複数の人が期せずして重ね繰り返したように、アートと言うと“=非日常”というのが素人の常套句で、僕の意識のなかにも根深く張り巡らされている枠組みのように感じている。だから、今回の“ライヴ感に富んだレジデンス形式の展覧会”への出品作としてのアート作品を、日常の、まさに生活空間そのものを作品化することによって試みようとする発想に新鮮な驚きを覚えたわけだ。『日常としての表象』という作品タイトルも、そう考えると意味深長になるような気がする。“=非日常”だと多くの人に意識されているアートの“日常としての表象”を、言葉ではなく形にすることがモチーフだったのだろうなと思った。

 このほか僕の気を惹いた作品は、東京出身在住の太田遼(24)の『出張!ステレオタイプ都市〜エンジョイ ココカラ in 高知市』、大阪出身在住の川本陸洋(26)の『series 変わり逝く世界』、徳島出身東京在住の小松宏誠(27)の『Air's song』だった。
 『出張!ステレオタイプ都市〜エンジョイ ココカラ in 高知市』は、郊外の幹線道路沿いによく立っている“Coca Cola”の広告看板をもじって“Coco Cala”とした大きな看板を室内に置いた感じのインスタレーション作品で、確かにコカコーラの看板はステレオタイプの象徴に相応しいかもと思いながら、それだけのことかと通り過ぎかけたときに、中央部に小さな覗き穴があることに気づいた。覗き込むと、どこの街にもある国規格のガードレール、標識、ライン、舗装によって日本の“ステレオタイプ都市”のミニチュア模型の通りが見えた。背景に何やら映像が展開していたようだが、よく見えなかった。でも、これだけだと“in 高知市”の部分が意味を為さないから、おそらく高知で撮った風景なのだろうと想像したら、案の定、リーフレットのコメントにそのように書かれていた。それによると、覗き穴は、玄関ドアの来訪者確認の覗き穴レンズだったようだ。その装置で提供できる視界には、やはり限界があって折角の制作意図が充分に伝わってこなかったのが残念だが、大きな看板の小さな覗き穴というのは面白く、けっこう気に入った。
 『series 変わり逝く世界』は、写真作品とそれを撮影したジオラマにカメラを据えたインスタレーションによって制作過程の一端を一目で見渡せる形にした作品だ。雲の作り方と映り方が面白く、写真で見た風景を形作っているものが、滞在中に地元で拾い集めてきたものであることをリーフレットのコメントで知って一層興味深く思ったが、作品自体からはそれが直ちに分かる品々ではなかった。地域性の持つ個性よりも主題のほうを重視した作品制作であるのは、前記作品とのタイトルの付け方の違いからしても明白で、敢えて“逝く”との言葉を当てているように、滅びや荒廃のイメージを環境的な視点から構成していたような気がする。
 『Air's song』は、リーフレットのコメントに「幾何学的には位置された高さ4m50cmの透明なパイプ36本が、暗闇の中に立ち並びます。パイプの中には、白く発光する鳥の羽毛が浮遊し続けます。装置の数カ所にスピーカーを配置し、浮遊する羽毛の動きとシンクロした音がゆったりと広がります。」と記されていた作品で、視覚的に最も単純に美しい作品だった。残念だったのは、“浮遊する羽毛の動きとシンクロした音”のシンクロ度が不十分で動きと分離したBGM的に響いてきたことで、羽毛を吹き上げるときに発するプシューという空気音が醸し出すリズムと音の生み出すメロディが同調よりも分離感を印象づけることにおいて、視覚と聴覚から受け取るものの同調不備以上に、分離感を際立たせていたことだった。見事にシンクロすれば、むろん音が加わっているほうが素晴らしいと思うが、同調性を損なうのであれば、音を添えないほうが却ってよかったのではないかと感じた。

 懇親パーティには、地元新聞社の現・元学芸部長やら、県立美術館の館長・学芸員、地元のギャラリー主宰者など見知った顔の中にも、久しぶりに会う人たちがいて、行ってよかったと思った。思いがけなく、従兄にも会ったが、考えてみれば、彼は県展のグラフィック部門の審査員をやっているのだから、僕なんかよりも案内を受けていて、当然だ。そこで、何が気に入ったかと訊ねると、広島出身在住の石川朋佳(27)の立体作品『Brackets』という答えが返ってきた。「自分の好みから言うと、ちょっと磨きすぎだと思うが」とのことだったが、今回の展示作のなかでは、従兄の作品イメージからは最も遠いところに位置しているように感じられる作品だったので、少々意表を突かれた。僕の質問に対し、敢えてその切り口で返してきたのかもしれない。
by ヤマ

'08. 8.23. 高知市文化プラザかるぽーと7F展示室&3Fカフェ・ドゥ・リーブル



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