『サイダーハウス・ルール』(The Cider House Rules)
監督 ラッセ・ハルストレム


 リンゴ収穫人宿舎の規則が“規則”という御大層な触れ込みのわりに呆れるほどどうでもいいような内容しかなくて、何の規範たり得てもいないことは、世の一般的な決まり事と同様で、実人生においては何の役にも立たないものでしかない。映画の台詞で言えば「少なくともここの住人が作ったものじゃねぇなぁ」というくらい、そこで暮らしている者には役に立たないどころか、ろくすっぽ知られてもいなかったりする。この作品において根幹を占める堕胎の是非や性愛のルールについても、サイダーハウスのルールが象徴的であるように、人の生に標たり得る決まり事などないのかもしれない。総てがケース・バイ・ケースであって強いて間違いのない決まり事を明示しようとすると、サイダーハウス・ルールにしかならないのが人間の本質だという気がする。

 この作品を観て、無資格のホーマー・ウェルズ(トビー・マグワイア) がラーチ院長(マイケル・ケイン)の後を継いで、セント・クラウズの孤児院の医師を務めることやホーマーとキャンディ(シャーリーズ・セロン)の恋、ラーチ院長のエーテル中毒などを全否定できる観客はいないはずだ。原作・脚本のジョン・アーヴィングの視線は、他の作品でもそうであるように、それらを例えば、必要悪だとか人間の弱さへの許容だとかいった合理化をせずに、人間の真実ないしは生の営みの実存として、善悪を超えたところで受け止めている。そのうえで、あのミスター・ローズさえも含めて、各人がそれぞれの選択した行動に見合ったけじめを善悪とは別の次元できちんと引き受け、けりをつけていくところに背筋が一本通っているのだ。

 そしてまた、マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグで際立った清潔感を印象づけたハルストレム監督が映画化することで、他の映画化されたアーヴィング作品(『ガープの世界』『ホテル・ニューハンプシャー』『サイモン・バーチ』)に共通していた、エキセントリックな人生の悲喜劇模様といった味わいとは全く異なる、新鮮な趣のアーヴィング映画を観せてもらったような気もした。

 堕胎手術の容認が自らの出生の否定に直結する立場にあるホーマーが尊敬するラーチ院長の医業を手伝いながらも、堕胎には手を貸さなかったのは、ある意味で当然のことなのだが、それにもかかわらず、ローズ父娘との出会いと関わりのなかで、自ら堕胎手術をおこなうことを選ぶようになる。生まれ育った孤児院を出て、新しく広がった世界で初めての恋をし、自活をし、自分に何ができるのか、どう生きたらいいのかをみずみずしい誠実さで感受し、成長していくさまに清潔感が溢れていて美しい。見て、言葉で教わるのではなく、体験して、感じて学ぶことのかけがえのなさと出会いの大切さが身にしみる。愚直なまでに小賢しさのない純なホーマーと大人の女性を感じさせつつ眩しいまでに溌剌としたキャンディの魅力が、本当の意味で女性を知り始める初めての体験の黄金のパターンとして、甘酸っぱい林檎の味を漂わせていた。

 ラストの「メイン州の王子、ニューイングランドの王、…」とラーチ院長の決まり文句を踏襲して語るホーマーの姿に、人の世を形作っているのは、何がいいとか悪いとかの価値判断ではなくて、生命とか技術とか言葉といったものが、こうして人の営みとして受け継がれていくことそのものなんだなぁという実に素朴で当たり前のことを、今更ながらのように、しみじみとした感慨として引き出された。



推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2000/2000_07_17_2.html
推薦テクスト:「This Side of Paradise」より
http://junk247.fc2web.com/cinemas/review/reviews.html#theciderhouserules
by ヤマ

'00. 7.23. 松竹ピカデリー2



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