『魔法にかけられて』(Enchanted)
監督 ケヴィン・リマ


 さすがディズニーの作品だとスタッフワークの見事さに終始感心。また、ジゼル(エイミー・アダムス)の声と英語の響きの美しさにも感心して、思わずアニメーション映画として初のアカデミー賞の作品賞にノミネートされた『美女と野獣』を観たときのことを思い出した。英語という言語の言葉の響きの美しさに初めて強い感銘を受けるとともに、そういう陰影の欠片もないピュアな美しさこそが、ディズニー作品の美の本質であることを僕に明瞭に意識づけてくれたのが、十六年前に観た『美女と野獣』だったからだ。

 加えて、なかなか機知に富んだ興味深い作品で、そのことにもすっかり感心させられたのだが、あまりに感心が過ぎてしまって、僕にとっては映画としての面白さ以上に、感心が先立っていたようにも思われ、少々損をしたような気がしなくもない。

 夢を運命と信じ、王子様の迎えを待つお姫様願望の娘ジゼルが、運命の迎えを待つのではなく、死に向かう眠りから目覚めさせてくれたロバート(パトリック・デンプシー)を救うために、自分のほうが剣を手にして竜を追い、王子様エドワード(ジェームズ・マースデン)ではなく子持ち離婚者ロバートとの恋を選んで、己が才を活かしてビジネスにも成功するという、まるでおとぎ話の世界の逆を行く“能動的で自己決定力のある女性になっていくことで幸福を自ら手に入れる現代的な物語”仕立てをしているようでいて、その実、無条件に自分を受け容れてくれる男との運命的な出会いを果たす恋愛ファンタジーという点では、全く古典的なおとぎ話に他ならないという巧みな仕立てによって、きっと女性客の心を掴むに違いないような商才にも長けた、実に鮮やかな映画だったような気がする。僕が観たときもけっこう客が入っていたものの、一人客は他には誰もいなくて、総て二人連れながら、むろん男の二人連れは一組もなく、男女もしくは女性ペアなのだが、多いのはむしろ女性ペアのほうだった。

 そんな巧妙さと機知が場面場面にも存分に活かされていて、『白雪姫』('37)や『シンデレラ』('50)といった過去のディズニー・アニメ作品の本歌取りを効果的に浮かび上がらせていたのだが、その趣向の核心は、セルフパロディというよりも、非現実のアニメーション世界を現代のニューヨークに持ち込んで実写化することでの異化効果にあったような気がする。アニメ世界で小動物と戯れていた白雪姫の愛らしさをリアルに実写化すると、群れなすネズミが所構わず部屋を駆けずり回って働くなかでジゼルが楽しそうに美しい歌声で掃除をしている姿が異様にも映ってくるわけで、アニメ作品ながら、ネズミ然としたネズミ姿で絵にしておいて、レストランの厨房で群れをなして料理をこしらえている光景を映し出していた『レミーのおいしいレストラン』を観たときに違和感として覚えた気色悪さというものを確信的に現出していたように思う。

 だからこそ、敢えて群れなすゴキブリやハエを登場させて働かせたり、セントラルパークにたくさん棲息しているのは、ハトのみならずリスでもあるはずなのに、ネズミばかりを強調していたのだろう。同時にそこには、それによって白雪姫の森とは異なる現代ニューヨークの環境問題を小動物を通じて、シニカルでブラックな笑いにする意図が働いていたような気もする。そこまでするのであれば、本当は、白雪姫たるジゼルの排泄やセックスも避けて通れない場面となるはずなのだが、リスのピップの漏便までに留めて、ジゼルがイメクラのコスプレ風俗嬢として成功するような類の悪趣味にまで走ったりしないところがディズニー作品の節度であり、面目なのだろう。

 しかし、作り手にそのような視線自体が潜んでいるのは明白なので、シニカルでブラックな眼差しというのは、実のところは、能動的で自己決定力のある女性になっていくことで幸福を自ら手に入れる現代的な物語のようでいて、その実、無条件に自分を受け容れてくれる男との運命的な出会いを果たす恋愛ファンタジーという、全く古典的なおとぎ話に他ならない物語にすることで女性客の心を掴む仕立てというものにも、込められていたような気がしてならない。

 それというのも、基本的に白雪姫の物語を下敷きにしながら、元々の出自からして姫であった設定を変えて、敢えて『シンデレラ』を持ち込んで、ジゼルを王女にはしていなかったからだ。そして何よりも、本歌のシンデレラその人が持ってはいなかったにもかかわらず、結果的に果たした成功譚から、シンデレラストーリーに憧れ、素敵な王子様の迎えを待つ依存願望の強い女性の意識に対して概念提示された「シンデレラコンプレックス」において規定されているような性格付けをジゼルに施して、お姫さま願望を持つ美人娘にしていたところに作り手の視線が窺える気がした。

 ある意味、現代病とも言うべき、幼時に過保護・過干渉で育てられた女性や高学歴の女性に数多く見られるとされる「シンデレラコンプレックス」が、本歌たる『白雪姫』にも『シンデレラ』にも描かれていないにもかかわらず、敢えて冒頭のアニメ部分で織り込まれていたところには、第二次大戦後まもなくに制作されたディズニー・アニメ作品の『シンデレラ』こそが、世界をアメリカナイズしていく最前線で活躍し世界中を席巻したハリウッド映画であったために、それを観て夢見る機会の得られる“幼時に過保護・過干渉で育てられた女性や高学歴の女性”に「シンデレラコンプレックス」というものを植え付けつつ、繰り返しリバイバル上映されたり絵本化されて普及していったことが示されているようにも映るわけだ。古典的アニメ世界の技法で冒頭提示するからこそ、そういったニュアンスが宿るわけで、そこにはなかなかの機知が窺える。そして、そのことがあながち暴論とも思えないのは、中村うさぎの著した『私という病』を読んだときに強く感じたアメリカ的なものの浸食の根深さからも明白だからだ。

 さすれば、“Enchanted”すなわち「魔法にかけられて」という原題の受動態が、暗に指し示している能動態での目的格は誰のことなのだろう。受動態となる以上、他動詞であるから「魔法にかかって」というような自動詞が想定外だとするならば、映画に登場したジゼルやロバートを素直にイメージできないところが味噌になるような気がする。少々穿ちすぎかもしれないけれど、能動態に戻したときに「誰かを魔法にかける」主体を要する他動詞を敢えて使っているのは、魔法をかける主体として物語に登場する魔女を想定する以上に、作り手が、前述した仕立てのなかに女性客に対するシニカルでブラックな眼差しを込めつつも、ターゲットにした女性客たちを気持ちよく楽しませて見せてしまう魔法のことを意味しているのではないかという気がした。

 本歌取りの趣向としては少々悪趣味ながらも、九年前に観たエバー・アフターにも匹敵するような機知と創造力に富んでいたように思う。また、十年半前に観た『スノーホワイト』のシガニー・ウィーバーの強烈な魔女ぶりには及ばないけれど、スーザン・サランドンの魔女には、出番以上の存在感があった。『エバーアフター』でのアンジェリカ・ヒューストンにも遜色なかったような気がする。流石だ。




参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録


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by ヤマ

'08. 4. 4. TOHOシネマズ8



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