『ALLDAYS 二丁目の朝日』
監督 村上賢司


 残念ながら『日本以外全部沈没』は、高知のような地方都市では当然のようにして上映されなかったのだが、思い掛けなく上映された『ALLDAYS 二丁目の朝日』は、このタイトルだけでも、映画好事家としては観過ごすのが勿体ない気にさせてくれるわけで、いそいそと観に行った。

 “あやかり映画”らしいチープな味が、ちょうど昔の低予算映画さながらで、オープニングの女尻のどアップから始まるストリップの見せ方からして、古色蒼然としていて何とも言えない趣だった。本当に、何十年も前の低予算映画そのままの風情で、全てがチープな映画ながらも、ささやかな面目の窺える場面があったように思われた。居ついた売春宿で面倒をみるよう頼まれた娼婦の子供たる少々ませた少年に、真雄(三浦涼介)が薪焚きの風呂を沸かしてやりながら「もし将来便利になって簡単に沸かせるようになったら、こんなに不便だったことを懐かしがったりするわけないよな。」と語りかける台詞が妙に印象に深かった。

 そして、きちんと厳しい境遇の子供を登場させ、男たちが溜まる地元の居酒屋を配置したうえで、ストリッパーと主人公青年の叶わぬ恋を描くなど、ALWAYS 三丁目の夕日の踏むべき韻をしっかり押さえつつ、かの作品が、売春防止法の施行された昭和33年を舞台にして風俗を描きながら、赤線廃止には触れていないような部分に端的に表れているものを、欺瞞とまでは言わないにしても、少々揶揄するような思いが作り手にあったのではないかという気がした。そのように考えると、おそらくは、低予算でセットを組めないから、ロケハンで汗をかいて当時の面影を残す家屋を探し、時代劇並みにアングルの制約を受ける形で空き地や通りの撮影をし、時代の空気を伝えるうえでの当時の風景については、その全てを資料写真の提示で済ませていたと思われるようなことにしても、その頻度の多さについては、『ALWAYS 三丁目の夕日』という映画作品が、いかにも貧しかったかの時代を描きながら、何とも贅沢に金をかけたCGやセットを見せつけていたことに対して、“貧相から豪奢を撃つ”ような意図が確信的にあったのかもしれないとの思いが湧いてきたりもする。

 ゲイバーやオカマクラブの街として名高い新宿二丁目が、この作品で描かれていたように、公娼制度廃止運動や売春防止法の施行によって街から娼婦が追われたことで誕生したというのが史実なのかどうかは、僕はよく知らないが、それはともかく、ラストシーンに朝日を配して『ALWAYS 三丁目の夕日』のラストの夕日と対照させていた本作が、本歌たる『ALWAYS 三丁目の夕日』では避けていた戦争の影について、傷痍軍人という形でむしろ強調して打ち出していたことも目を惹いた。戦時中に真雄の踊りを褒め、彼の心に強く住み着いた男が隻眼であったことにしても、戦後になって道端でハーモニカを吹きながら義捐金を求める片足の男が実は両脚揃っている詐欺男だったエピソードにしても、敢えてそのように設えていたところに、何らかの作り手の思惑がないわけがないようにも思えてくる。映画の造りとしては画面造形も筋立ても何ともショボイ作品なのだが、そんな意匠を凝らしてあるところに、昔ながらのあやかり低予算映画の面目のようなものを今に伝えている感じがあって、何とも言えない味わいがあったような気がする。チープなエロがもう少し強く効いていたら、尚よかったのだが、そのあたりが何とも中途半端だったのが、いささか残念だ。
by ヤマ

'08. 4.13. あたご劇場



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