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『あしたの私のつくり方』 | |||||
監督 市川 準 | |||||
『東京兄妹』や『大阪物語』『東京マリーゴールド』で魅せられた市川監督作品には、このところ『トニー滝谷』でも『あおげば尊し』でも、ちょっと精彩を欠いているような印象があったのだが、この作品は、十代の女の子の心の揺れと不安をデリカシーに富んだ視線で捉えて、なかなか見事な出来映えだと思った。自分自身の姿であれ、他者の姿であれ、また、それら相互の関係性であれ、心に写る姿と現実のずれについての意識と対処というものが、思春期の一大課題であるのは男女を問わないことではあるけれども、とりわけ視線が外に向きがちな女子においては、自分がどう見られているかということが何にも増して一大事になるわけで、それがかくも悩ましく苦しいものであることが切々と綴られていたように思う。 クラスの人気者から一転して無視による孤立に追いやられていた花田日南子(前田敦子)から、小学校卒業の日の図書室で、“ニセモノの私”を役割として捉える視線を与えられたことから、それまで自分が苛まれていた罪悪感と違和感から救われるようになった大島寿梨(成海璃子)が、中学に入って一度も話をしないまま、高校生になって山梨に転校していった日南子に、役割として堪え忍ぶための“ニセモノの私”ではなく、なまじ目立った位置にいたからこそ味わった転落を再び繰り返さないために、目立つ存在ではなくて溶け込む存在になるための“演じること”を、日南子に悟られないよう匿名のままメールで、二人の名前をもじった「ヒナとコトリの物語」として伝授することによって見事に救う一方で、結局は“演じること”では本当には何も救われないことを再び日南子から教わり、凝りつつあったものをほぐしてもらうという物語だったような気がする。本当か偽りかといったことがかくも重大なこととして強迫してくる姿に、いかにも女性的な思春期というものを僕が感じたところには、少々偏見が潜んでいるのかもしれないが、かような時期を過ごすのであれば、女性たちが大人になっても、やたらと真偽にこだわりたがる傾向にあるのも無理ないように感じた。 大学の時分、男性と女性では何に“嘘”を感じるかで、どうやら大きな隔たりがあるようだと感じ始めて、その検証に幾人かの男女の友人たちに「男は、相手の一貫性のなさや辻褄の合わなさに嘘を感じ、女は、本当のことではない偽りに嘘を感じるものだ。そのために、男が場合によっては偽りも敢えてやむない形で嘘つきにならないよう臨めば臨むほどに、女からは嘘つきだと責められるし、女は、その時々の有り体をそのままに表明することでいかに一貫性を損ない訳の分からない支離滅裂を招こうとも、“嘘”ではない正直さとして、むしろ“誠実”に誤魔化さずに向かっている証拠だと思っているから恬として恥じるところがない傾向にありがちだと僕は思うが、どうだ?」と訊ねて回って、そのたび毎に大いなる同意を得るとともに、エラク感心された覚えがある。そのうち「お前、苦労してるんだなぁ」などというお門違いの回答をしてくる者が現れたので、意見収集は止めることにしたのだが、嘘と同様、いやそれ以上に“誠実”ということについては、男性と女性では大きく感覚が違っていると今も思っている。僕は男性だから、現実に一貫性の損なわれている事態や辻褄の合わない事態が既に生じていて、その事態そのものが現実であれば、それ自体の是非はさておき、いかにして実際上の一貫性を保ち辻褄の合った効果を発揮する手立てを講じるかということに腐心する態度こそ、まさしく誠実さの現れそのものだと思うのだが、多くの女性はそういう態度をよしとせずに、誠実どころか“誤魔化し”の一言の元に一蹴しがちのように思い込んでいる。 だから、僕は、卒業アルバムを頼りに片っ端から電話を掛けてコトリを捜し、ようやくメアドではない電話番号に辿り着いた日南子が寿梨にコールして、互いの声を確かめつつ、テレビ電話で顔も見合わせながら話をするに至った場面で、「いつから私だと気づいてた?」と寿梨に問われて「最初から」と答え、「あの図書室のこと覚えてる?」と問われて「忘れるわけないじゃない」と偽った日南子の言葉に嘘を感じなかった。そして、友情を“演じている”とも感じなかった。でも、女性から、それは甘いと指摘されてしまいそうにも思うし、女性の多くは、あのとき日南子は嘘を言っていたと受け止めていそうに思う。善し悪しではなく、感覚の違いなのだろうという気がする。この作品の原作小説は三十歳の女性作家 真戸香によるものだし、脚本も細谷まどかとなっているから女性だと思われるのだが、小学校のときのイジメられっ子のメガネっ子だった久保田さんが、イジメの矛先が日南子へと急転したことや、難関私立中学への合格を契機に自信を得たことが幸いとなったせいか、高校時にはメガネも外しおしゃれで明るい女子高生に変化したうえに、今は寿梨の“パリ・テキサス”ともいうべき大切な家に住むようになっているという、寿梨にとっては、ある種のコワさと残酷さを印象づけるような構図が敢えて設えられていたことからすれば、電話での日南子の言葉にも、そういった色づけがされていたのかもしれない。だが、市川準の演出からは、むしろそのような色づけを遠ざけるような方向性を感じたし、僕はそれを支持したいと思っている。 それにしても、小学生・中学生・高校生と演じて、どれもそれらしく見えていた成海璃子には驚いた。でも、そのように映ったのは、それだけ僕との歳の差が激しいということであって、実際のその世代の者が観ると違和感でいっぱいなのかもしれないとも思う。それとともに、今の若い世代がいかにハウツー的な生き方とかマニュアル的なものに馴染んでいるかが窺えて、何だか妙に気持ち悪さを誘われたところが興味深かった。僕の若かりし頃の感覚では、生き方にハウツー的なノウハウを他人に求めて臨むのは、姑息というか自尊心に障ってくる感覚が強く、また、そこには我が個性が何ら考慮されていないことへの不信感から、むしろお節介な説教なぞ要らないという反発を触発してくる類のものだったような気がする。僕は、人一倍、天の邪鬼傾向が強かったから余計にだったが、一般的にも、今時の若者ほどにはノウハウに従順ではなかったし、傷つきやすくもなかったように思う。情報社会化のなかで変わってきているところが随分とあるのだろう。 | |||||
by ヤマ '07.12.19. 美術館ホール | |||||
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