『東京兄妹』
監督 市川準


 敢然と選択された、寡黙であることによる雄弁さを目指す文体といい、そのために実に丹念入念に積み重ねられたカットといい、作品が捉え描こうとしているもの以上に、この作品そのものが極めて日本的な美意識に支えられている。しかもそれをかつてあり、今や失われたものとしてノスタルジックに綴るのではなく、今に残るものとして同時代性のなかで語りながら、いささかもアナクロ的な古めかしさを漂わせることなく、むしろ新鮮な艶やかさを獲得しているのだからたいしたものだ。田舎を舞台にするのではなくて、大都市東京で若者を主人公にして、こんなに静かで美しく凛凛しい世界を今、表現できるというのは、驚くべきことだと思う。それは、作り手がその日本的な美意識を支える精神の本質をつかんでいるからだろう。

 そういう意味で非常に印象深い場面が終盤に登場する。乗り合わせる客が誰もいない夜の電車の車内で、兄妹がシートに並んで腰掛けて虚空に足をピンと伸ばして静止するカットのことだ。観る側の注意を殊更ひくような所作をほとんどさせずに、自然な動作と短い会話でのみ綴られてきたこの作品のなかで、初めてオヤッと注意を喚起させる意図をもって、このカットは出てきたような気がする。下腹に力を入れないと保てないこの姿勢は、そのまま作り手の表現したかった日本的な美意識を支える精神の本質である、芯の強い凛凛しさをイメージしていたような気がしてならない。そして、このカットのイメージの豊かさが、それに続く、音楽(居間の旧式ステレオにレコードのジャケットが見えていたブラームスの曲なんだろう)にのせて淡々と風景の短いショットを重ねる映像のリズムのもたらす、なんとも言えない感情を観る側に湧き起こさせる力を支えていたのだと思う。だから、音楽が止まり、緒形直人の演ずる兄が道を歩きながらこちらに向かって来る映像に繋った時は、あれっという気がした。この静かで豊かな盛り上がりの後に何を続けるのだろうと。てっきり、ここで終るものだと思った。そのせいか、それに続いて展開された、兄が家路を辿り、妹の待つ家の明りを見止めて門戸に手を掛けたところで、きびすを返すように振り返ったストップモーションで終るラスト・シーンが今だに腑に落ちないでいる。

 映画のなかで兄の語る豆腐に寄せた言葉を待つまでもなく、造るという作業に対して向かう、大事に丁寧に丹精込めてといった作り手の態度が、敢て選んだラスト・シーンにそれなりの意味がなかろうはずもない。だからこそ、それまでさまざまな形で自分なりに充実したコミュニケーションを作品との間で感じていただけに、ラスト・シーンがしっくりこなかったことには、いささか悔しい思いをした。

 ドラマのドラマティックである部分を台詞や描写で語ることをほとんど総てそぎおとし、兄妹間の息遣いと季節の肌触り(特にオープニングの夏の肌触りの捉え方は見事だった)や街の風物風景のたたずまいによってのみ綴ろうとするのは、非常に勇気の要ることであり、また自信の為せる技だとも思う。それらが空振りにならず、ひっそりとした息遣いやしっとりとした肌触り、しっくり馴染んだたたずまいとして、五感にまで響く充実した結実に繋ると、やはり改めて映画という表現の持つ豊かさや手応えを体感させてくれ、感慨深いものがある。「貰い醤油」と「夜なべアイロン」は、少しクサいという気もしたけれど、映画を観る喜びは、こういう作品と出会えるところにあるなとしみじみ思った。それにしても、妹を演じた粟田麗は、みずみずしくて素敵だった。
by ヤマ

'95.10.27. あたご劇場



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