『聴かれた女』
監督 山本政志


 「できましたら、公開初日の2/10までに、『間借り人の映画日誌』にて、レビューを掲載して頂ければ」ということで、製作・配給・宣伝の潟gランスフォーマーから一月半ばに送られてきたサンプルDVDを二月になってようやく観た。このところ立て込んでいて、なかなか時間が思うようにならず、差し迫ってから慌てて観たのだが、何とも危ない作品ながら、今という時代を如実に映し出しているようにも感じた。
 今回の思い掛けない依頼の契機は、検索で拙サイトに辿り着いたことだったそうだが、地方在住の一映画愛好者と制作者とがダイレクトに繋がることができるようになったのだから、ハイテク時代というのは凄いものだ。この『聴かれた女』にしても、昔なら007でもないと考えられないようなハイテクが一般人の日常のなかに降りてきている現状を前提にしなければ、到底成立しないドラマだった。
 超高性能の盗聴装置や盗撮カメラが簡単に入手でき、操作できる状況なればこそのリョウ(大野慶太)の妄想であり、雄太(加藤裕人)の暴虐なのだ。盗み聞きや覗きへの欲望それ自体は、秘密というものに特別な意味と価値を覚えがちな人間の習性としては、決して目新しいものではなくて、むしろ原初的とも言うべきものなのだが、彼らが駆使したようなハイテクが得られなければ、あそこまでエスカレートさせることは叶わない。技術が欲望を増幅させているわけで、まさしく現代の仕組みそのものだという気がする。
 それにしても、変態の日常性というものが、なかなかにアヤシイ作品だった。ハイテクによる盗聴のもたらす臨場感と妄想力の触発を描き出している場面になかなか力があったように思う。目掛けた女性の出すゴミまでも漁って調べ上げ、彼女の日常を克明に記録しつつ妄想に妄想を重ねて陶然とするリョウや恋人の独り暮らしを盗撮カメラで盗み見てはボイスチェンジャーでイタ電を繰り返す雄太の“独りでいるときの異様さ”と“人と接しているときの好感度の高さ”との対比と落差が、妙に生々しかった。リョウや雄太の標的にされる皐月を演じた蒼井そらの肉体に宿っているはち切れんばかりの若々しさにも見惚れたけれども、印象深いのは、むしろ男性キャラたちというヘンな映画だったような印象が残るのは、おそらくそれゆえなのだろう。そして、僕のような年代の者には、昔懐かしい日活ロマンポルノ的な風情のあっけらかんとした感興を引き起こしてくれたエンディングだったが、その場面を除けば、まさに病膏肓に入っているように映った変態の日常化に、やけに現実感が漂っていたところに感心させられた。
 皐月が飛び跳ねて驚く、生きた海老とエビフライのエピソードには、二面性として変態を捉えることへの異議申し立てが、もしかしたら込められていたのかもしれない。生きた海老とエビフライが、全くの別物ではなくて地続きのような関係にあるのと同様に、変態性も裏面とか背面といったものではないというわけだ。違いは見慣れているか否かであって、命を奪われ衣を装った姿であっても見慣れたエビフライに皐月はたじろがず、生きた海老を気持ち悪がって飛び逃げるのだが、変態というのもちょうどそれと同じく単に見慣れていないだけで、むしろ命が息づいているのは気持ち悪がられる変態のほうだと言わんばかりのところがあったように思う。このあたりは、なかなか鋭いところも突いていて、人間というのは、そうしたものだという気がしなくもない。そして、変態にも良い変態と悪い変態がいるにすぎないのであって、決して変態そのものが悪いのではないとの主張があったような気がする。
 とは言え、最後に皐月が語るように「さぁ、こっから始めよう。」とはやはり思えない僕は、まだまだ未熟と言うほかないのかもしれない。ところで、僕にとって存在感としての怪しさで群を抜いていたのは、実は、盗聴のプロとして登場していた大野だったのだが、エンドロールによれば、彼を演じていたのは、山本政志監督だったようだ。年季というのは、やはり滲み出るものなのだと改めて思った。そして、このような脚本を書くのも道理だと思った。


推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2007kicinemaindex.html#anchor001553
by ヤマ

'07. 2. 5. サンプルDVD




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