『NANA2』
監督 大谷健太郎


 大谷健太郎は、デビュー作avec mon mari アベック モン マリ('99)を自分たちで上映して以来、気に掛けてきた監督なのだが、今では少数派となりつつあるようにも感じる“脚本も自分で書く監督”であるところに大いに惹かれている。九月に観た『ラフ』が青春映画として充分な出来映えでありながらも、持ち味の絶妙のデリカシーを湛えた視線と筆致が前作NANAには及んでいなかったのは、監督のみで自身が脚本を手掛けていなかったからかもしれないと思われたことからすれば、ハチこと小松奈々(市川由衣)が新たな恋を求め継いでいくなかでの妊娠問題に主軸を置いた本作は、それゆえに前作よりも普遍的ではあるが、いかにも陳腐に堕しかねないリスクを負ったドラマであるにもかかわらず、絶妙のデリカシーに富んだ人物造形と描出によって立派にビルドゥングスロマンたり得るものになっているように感じられた功績が、監督自身が脚本も手掛けていたことにあるような気がして、改めて感心した。

 前作の恋物語の主軸が、奈々の後押しによる大崎ナナ(中島美嘉)と本城蓮の恋愛成就にあったことへの対照として、本作では、ナナが願う奈々の恋人獲得が恋物語としての主軸になっていたように思う。ノブこと寺島伸夫(成宮寛貴)からの“告白”を受けた奈々が、「巧とのことは誰にも知られたくなかった。そしたら、何もなかったフリして聞けたのにって思う自分がいて…、でも、そうはいかないよね。」というような台詞があって、「私は、ナナやノブが思ってくれるような純粋で真っ直ぐなだけの娘じゃないよ。」と告げる場面が効いていて、そういうことを素直に表明できる奈々をナナやノブが愛していることに納得感をもたらしてくれると同時に、本作のラストでの二人のNANAの独白を含蓄のあるものにしてくれていたように思う。いわくナナは「流れに逆らって踏ん張って頑張ることが生きることだと思ってきたけど、流れに身を任せるのもバカじゃないよね、前に進めるんなら、ハチ。」と奈々の恋人選びの有り様に被せながら、自分たちのバンド売り出しに係る顛末をも振り返り、奈々はシンこと岡崎真一(本郷奏多)の計らいでナナと暮らした部屋で再会して多摩川に上がる花火を一緒に眺めつつも、もうナナたちとは離れて巧と暮らすようにしたことに対して「ナナ、この日のことは、絶対に忘れない。私の選んだことなのだから。」というようなことを呟く。ナナは、奈々を“流され女”と見つつも、その生き方のなかにあるタフさを肯定し、奈々は、彼女自身の“選択”だと意識しているわけだ。

 奈々が、上京までして追ってきた章司にフラれた後の淋しさのなかで、憧れのトラネスの一ノ瀬巧(玉山鉄二)に声を掛けられ、手慣れたスマートさでエスコートされると有頂天になって即座にホテルで一夜を過ごしてしまい、その後は巧がちっとも自分を気に掛けてはくれないことに気落ちしつつある処でのノブの告白に、素早く乗り換えを果たしながらも、妊娠問題で巧が男のケジメを付けようとして向かってくると、その流れに身を任せて巧との結婚に乗っていきノブをないがしろにしてしまうわけだから、行状的には節操がなく、ナナが言うように“流され女”と見えなくもない。しかし、巧との付き合いに際しては、章司のときの轍を踏まぬよう戒めるが如く“重たい女”にだけはなるまいとする姿が描かれ、ノブとの付き合いを始めるに際しては、そんな一日や二日でとノブに呆れられながらも、奈々なりに勇気を振り絞って巧に訣別宣言を行い、ケータイ着信拒否登録もして、真摯にノブに向かっていたように思う。奈々にしてみれば、ただ流されて付き合っているのではなく、自分なりに考えもしているし、選択していると思うのももっともだ。

 そんななかで、奈々が“流され女”か“選択女”かが問われたハイライト場面にも思えるのが、ミキシング作業中の巧に突如会いたいと電話してきたことに対し、時間が取れないと断りながら冗談めかして妊娠でもしたのかと問うと、そんな話じゃないと答えつつも一方的に訣別宣言をして音信不通になった奈々のもとを、しばらくぶりに巧が訪ねてきた夜の出来事だったような気がする。展開の流れに沿って映画を観ているときは、訪問してきた巧を拒みながらも巧妙に入室され、妊娠を気取られたことに狼狽して、私が悪いのよと言いつつ、「巧じゃなくて、“彼”の子供かも知れないし。」と口にした奈々の言葉どおりに、奈々自身もどっちの子供か判らないでいると思って観ていたから、その状態のなかで巧が、子供を認知し面倒をみるとの意思表明をし、ノブが、自分と付き合い始めてからは巧とは切れていたことを言明してくれれば、嘘でもそれを信じるからと訴えたことに対しては、一方的とは言え、巧への訣別宣言をしてケータイ着信拒否登録もしていたのに、奈々が泣きじゃくるばかりで何らの表明が出来ない姿に“女性のリアリティ”を痛烈に感じつつも、巧に前後してノブと付き合うなかで、ナナに「ノブのこと、メチャメチャ好きになってきた。」と嬉しげに告げていたことが押し流されていってしまうことへのもどかしさに苛まれるような気がしていた。そんな泣きじゃくりを見せている二十歳の女の子に言葉を求めても無理だとの思いが湧くと同時に、二十歳の男の子に彼女の無言を拒みと受け取らないよう求めることも叶わぬことだとの思いが湧く。結局ノブは、奈々の部屋を後にして夜道を歩きながら敗北感とともに涙し、奈々は、奈々の眠るベッドに一晩中身を凭れさせるようにして睡眠を取った巧に翌朝、どうするかの答えを求められ、「産んで育てたい」と告げることになる。

 ところが、後の場面で、ナナがヤスこと高木泰士(丸山智己)に告げる台詞によって、観ている側に、巧は避妊していなかったけれど、ノブは避妊をしていたことが判る。それによって、奈々自身もどっちの子供か判らないでいると思って観ていた僕の目に映った「巧じゃなくて、“彼”の子供かも知れないし。」と口にした奈々の言葉の意味やノブに対する無言の泣きじゃくりの意味が異なった相貌を伴って現れてくる仕掛けになっていた。あの夜、奈々は、お腹の中の子供の父親が巧であることが判っていたから、あてにもしてなかった巧の申し出に驚きつつもノブとのことも知ったうえでの決意に感激し、明確な選択の意思を持ってノブに対したのであって、二人の男の板挟みになったなかでの混乱に押し流されていたわけではなかったということだ。奈々の「私は、ナナやノブが思ってくれるような純粋で真っ直ぐなだけの娘じゃないよ。」との台詞が改めて活きてくるとともに、奈々の「ナナやノブと違って巧は私の空っぽのところも赦してくれてるから。」という独白も利いてくる。

 選択しつつ流れに身を任せるのは、流されることと同義ではなく、常々僕も処世の要諦と考えているところだが、未熟な時分には、選択とは即ち流れを自ら作り出すほどの選択でなければよしとしないとなりがちで、流されないことの自己証明も敢えて流れに逆らう形でしか確信が持てなかったりしがちだ。この作品には、そのことへの自覚が明確にあり、蓮(姜暢雄)とナナの関係がゴシップとして騒がれる流れのなかでのデビューをよしとしないノブに対し、ヤスが「そんなことにいつまでもこだわるようなら、寺島旅館に帰れよ!」とたしなめる場面がある。ラストの二人のNANAの独白に、ここのところに触れる自己形成がきちんと果たされていることが二人に窺えた点が、この物語が立派にビルドゥングスロマンたり得るものになっていると僕が感じたゆえんだった。

 そして、前作の日誌の末尾に綴った「それにしても、気持ちのいい映画だった。奈々の想いを踏みにじることになった章司をも含めて、登場人物の若者たち全員が生きることや人間関係に真面目に向き合っている姿が、過剰に美化されることなく何とも自然に無理なく浮かび上がってきていて、押しつけがましいところが少しもなかったような気がする。なかなかこのようには描けないものだ。」との思いが再び蘇ってくるような出来映えにも感心させられた。蓮や巧の人物造形には、特にそのような配慮が意識的に施されていたような気がする。結局、ハチが獲得した恋人は、七夕の日にナナが短冊に書いて願ってやったとおりに“ロンゲの素敵な”男だった。
by ヤマ

'07. 1. 6. TOHOシネマズ3



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