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『ストロベリーショートケイクス』 | |||||
監督 矢崎仁司 | |||||
原作コミック・脚本とも女性の手によるこの映画を観て、女性って難儀というか、生きにくそうだなどと思いつつ、僕は男だから実感ではないけれども、女性にとってはさぞかし生理的に響いてくる映画だったのではないかという気がした。そこのところで、女性からの賛否が両極に出そうな感じの作品だ。だが、そのことは、この映画が秀作であるからに他ならない。 映画の冒頭、「私は男に引きずられたことがある」との独白とともに、実際にパジャマのまま男の脚に掻き付いてベタに「何でもするから捨てないで」と縋り付きながら、衆人環視のなか路上を引きずられる里子(池脇千鶴)の姿が登場する。通常、女性が口にする「男に引きずられる」というのは、生きていくうえでの気持ちや生活態度でのことであって、生身を引きずられることを指したりはしないわけで、自室に置いた棺桶のなかで眠るデリヘル嬢秋代(中村優子)の風変わりな部屋を、大きな水槽に飼っている小魚が遊泳する姿越しに映し出す序盤の映像共々、いまだに自主映画的な趣を残し宿している矢崎作品の肌触りを嬉しく感じた。僕が矢崎仁司の名を強く刻みつけられたのは、『三月のライオン』('92)を観てだから、もう随分になる。 二年前にミュージシャンと思しき“彼”に路上を引きずられた挙げ句に捨てられた里子が「この最悪にみじめな出来事を乗り越えられたあたしには、なんだってできるような気がした」と語る冒頭場面の台詞が効いていて、それが最悪かどうかはともかく、他の主要登場人物たる女性三人ともがそれぞれに、男絡みで最悪にみじめな気分になる場面というのが設えられていた。男の歓心を買い、愛されることに自身の女の全てを賭けているようなところが、それ故に却って報われないことに繋がってしまう哀れを乗り越えられないでいるOLちひろ(中越典子)は、つれなくなった恋人永井(加瀬亮)から誕生日にも声が掛からず、ルームシェアをしている塔子(岩瀬塔子)の手前、自分への誕生日プレゼントを自分で買って知り合いの男を呼びだしラブホに行くみじめさを味わい、ストーカーまがいの捨て身の詰め寄りに賭けた挙げ句に、永井から別れを告げられてしまう。デリバリーヘルスでは禁じ手のナマ本番で荒稼ぎをしつつも、いざとなればいつでも投身自殺のできる高層マンションを手に入れるのだと質素な生活を続けている秋代は、専門学校時代から密かに想いを寄せながら応えてもらえない菊池(安藤政信)に迫って交わしたセックスで、菊池からは勘違いの破瓜を謝られ、その一夜の後は客に肌を触られることすら耐え難くなってしまっている自分という予期せぬ事態に狼狽させられていた。失恋が原因なのかは定かでないながらひどい摂食障害に苦しみつつも、自分の弱みを誰にも明かせない頑ななプライドと背伸びで自らを鼓舞してきたと思しきイラストレーター塔子は、同居人ちひろの留守に彼女の恋愛日記を盗み読みしては自慰に耽っていたし、出て行ったかつての同棲相手から結婚の知らせと共に借りていた金を返すとの通知を唐突に受け取り、いまだに痛み苦しんでいる自分との彼我の差にみじめな思いを味わっていた。 「恋がしたいっすねぇ」などとぼやき、「スペシャルな人のスペシャルな女になりたいです」と拾ってきた珍しげな石を本尊にして神頼みしていた里子が、四人のなかでは、男なり恋愛の呪縛から最も自由になれていたように見える。それは、やはり里子自身が冒頭場面で独白していたように、最悪な出来事の“乗り越えの自覚”が得られていたからなのだろう。それで言えば、それぞれが最悪な出来事の乗り越えとも言える新しい生活に踏み出したように見えるこの映画のエンディングには、ある種の希望が宿っていたような気がする。そして、そこには男の存在感など皆無であったのに、映画としては、女性監督作品『三年身籠る』が感じさせたような“男嫌い”が漂ってなかったところが興味深かった また、女性にとっての“装い”というものを少々誇張して対照させていた眼差しには、大いに感心させられた。デリヘル嬢としては「チェンジなさいますか?」と婉然と微笑む秋代が、想う男に対しては、一切の装いというものをまとわずに、ひっつめ髪の素のままでしか向かえないのは、ある意味、職業的なところからの反動としての生真面目さだったのかもしれない。プライヴェートでも装いをまとうことで心を汚したくない思いが無意識のうちに働いていたような気がする。他方、ちひろは、恋人同士としてセックスを幾たび重ねても初めの頃と同じように寝具のなかで下着を付ける“女らしさ”を続けることや男の脱ぎ捨てた衣類を畳んだり手料理で喜ばせようとすることが、彼女の個性や愛情としてではなく、無自覚な手管としての装いにしか映らなくなって男を辟易とさせていることに気づかない。装いが無意識のうちに染み付いているのだろう。いずれも、装いにまつわる態度として女性に起こりがちなものだが、デリカシーを湛えて見事に描き出されていたように思う。とりわけ、荒淫で痛めた性器での交合に破瓜の勘違いをさせてしまったことが、並みの装いなど及びもつかないとんでもない偽装となってしまい、自身の企図したことではないながらも、通常の装いすら拒んでいた秋代にとっては取り返しのつかないダメージとなって傷んでいた彼女のデリカシーが瑞々しく痛烈だった。 そんな秋代が、おそらくは父親の判らないであろう子供を宿したことで、生にようやく甲斐を手に入れている姿がエンディングで描かれ、それには大いに打たれたのだが、男の僕としては、少々割り切れない思いが湧かぬでもなかった。エンディングでは、ちひろも雑用しか与えられないOL稼業を辞めて田舎に戻って出直すことにし、塔子は“失われた神の絵”の行方を見出していた。それぞれが最悪の出来事を乗り越えて、新たな歩み出しを始めるのだろうが、それにしても、女性たちが男なり恋愛の呪縛から解かれるためには、かほどの乗り越えを要するのかと思うと、自分が女性に生まれて来なかったことに安堵するとともに、女は大変だなぁと恐れ入った。しかも、自らを痛めずにおかないほどの呪縛からは解かれてもなお、里子がしばしば呟いていたように、恋愛そのものは求めずにいられないのが、現代に生きる女性たちなのだろう。さればこそ、それに見合うだけの対峙を男も果たさなければならなくなるわけで、生半可なことでは伍していけない。男が女に敵わないのも道理だと改めて思った。なんとも痛い映画だったが、幸いなことに、既に僕は前線リタイアを余儀なくされている。 推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2006sucinemaindex.html#anchor001505 | |||||
by ヤマ '06.12.19. 美術館ホール | |||||
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