『愛されるために、ここにいる』(Je Ne Suis Pas La Pour Etre Aime)
監督 ステファヌ・ブリゼ


 人生に疲れと悔いを滲ませつつも淡々と務めを全うしようとしている五十歳のジャン=クロード(パトリック・シェネ)とかなりの遅れ目ながらも母親の期待に応え結婚に踏み切れる相手と時期をようやく迎えるに至っているフランソワーズ(アンヌ・コンシニ)が踊るタンゴにまつわる場面でのちょっとした手の位置や視線、身体の距離で示される感情や心理のニュアンスに満ちた表現が見事だが、さらに素晴らしいのは、そのデリカシーに富んだ人間描写が踊りの場面に限らず、総ての場面に行き渡っていて、とても味のある大人の作品に仕上がっていたことだったように思う。
 僕ももうすぐ五十歳を迎えるけれども、クロードのような年季や人生のコクを滲ませるには到底至ってないから、タンゴのダンス教室に通ってみたところで、かようなときめきとの出会いが得られるとは思えないが、この映画を観ているうちに、クロードと同じく旧知の女性のマリッジ・ブルーとも言うべきものに動揺させられた遠い日の記憶がまざまざと蘇り、得も言われぬ気分を引き起こされた。  僕にとってのこの作品のキーワードは“本心”だったような気がする。誰にも明かしていないどころか、自身の内でも漠として掴みかねている自分自身の本心の在処というのは、ジャン=クロードやフランソワーズくらいの年季を重ねていても、捉えがたいのが人間というものの本質であることが味わい深く伝わってきた。
 兄や姉が疾うに見放している我が儘な悪態親父(ジョルジュ・ウィルソン)をなぜ自分が毎週律儀に見舞い、モノポリーゲームの相手をしてやっているのかは、彼自身にも本当のところは判っていなかったのだろうし、自分の我が儘や悪態が許容されることを確かめる形でしか相手にとっての己が存在価値を認められない困った父親の困った“本心”としての息子への想いというのは、さらに見当が付かないでいたことが明らかになるエピソードが利いている。だからこそ、クロードは、老いて寂しくペットと暮らしていると漏らす老秘書が忠告してくれたフランソワーズの“本心”に向けて、彼女が自分の事務所に来て語った事情説明を聞いて以来もう足を踏み入れないようにしていたダンス教室を再び訪ね、彼女の手を取るわけだ。
 しかし、悪態親父を毎週欠かさず見舞っていた彼の本心が自身でも明確ではなかったように、フランソワーズの本心もまた、老秘書が語るようには単純明白なものではなかったような気がする。ちっとも気は利かないし、風采のあがらない男ながらも、結局彼女は、婚約者ティエリー(リオネル・アベランスキ)と結婚したのではないかと思う。通常の展開ならば、最後に再び踊り始める二人を描くのだから、それが彼らの“いささか薹の立った『卒業』”みたいなエンディングとして映るとしたものなのだが、僕の目にはそうは見えてこなかったところが、とても味のある大人の作品に仕上がっていたと感じる所以でもある。
 何もかもを御破算にしてというような形でさらけ出す激しい情熱とは異なる静かな燃え方にこそ味のある想いが本心として宿っていることはままある話で、亡父が縄掛けした箪笥に仕舞い込んであった記念トロフィーの数々を遺品として見つけたクロードは、老秘書の語ったフランソワーズの本心をその在処としても悟るに至っていたのではないかという気がする。
 自分の口からではない形で伝わった自身の婚約について、きちんと説明させてほしいと訴えていたときのフランソワーズには、あるいは激しい情熱へと敢えて駆り立てて向かおうとすることでマリッジ・ブルーを払拭したいと思う気持ちが“歳に似合わぬ若々しさ”で訪れていたようにも窺えたのだが、クロードに会って説明をする前に絶妙のタイミングで朴念仁婚約者のティエリーから思わぬ言葉を掛けられたりするのが、まさしく人生の綾とも言うべきところだと思う。だから、彼女のクロードへの説明は不得要領のものとなって老秘書の忠告に繋がるわけだが、彼女がそこで不得要領になってしまうのは、そこにもまた彼女の本心が宿っていればこそ、でもあるからだ。クロードに惹かれているのも本心、ティエリーと結婚しようと思うというのも本心、という少々身勝手で我が儘な女心に対し、彼女のマリッジ・ブルーから端を発した“歳に似合わぬ若々しさ”に触発されて、自身も若々しく舞い上がっていたクロードだったが、悪態親父を受け入れつつも“本心”は死後に知って悔いを覚えたことで、最後の場面では、生きているフランソワーズの“本心”を受け入れ、汲み取ろうとの思いに至っていたのだという気がする。
by ヤマ

'07. 1.15. 渋谷ユーロスペース



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