『NANA』
監督 大谷健太郎


 自分たちで上映もしたavec mon mari アベック モン マリ('99)で大いに僕の目を惹いた大谷健太郎監督作品は、高知では『とらばいゆ』('01)が公開されず未見のままだが、先頃オフシアター上映で観た『約三十の嘘』('04)が少々物足りなかったので、本作の出来映えが気になるところだったけれど、思いのほかの快作ぶりで気持ちのいい余韻を残してくれた。

 二十歳の二人のNANA、小松奈々(宮崎あおい)・大崎ナナ(中島美嘉)の出会いと心の通い合いが絶妙のデリカシーを湛えた視線で綴られるのだが、『アベック モン マリ』を観たときに、「旧来とは異なる男女観をどうこう言うのではなく、それ自体を前提として、きわめて自然なまなざしで男と女の姿を捉えたからこそ、そのなかに新しい人間像が息づく形で浮かび上がったのだと思う」と日誌に綴ったことの流れの延長に確かにあると思えるような“人間像の息づき”の部分に、最も魅力のある作品だったような気がする。僕にとってはもはや遠い日となる歳頃の若々しい青春群像のなかにある眩しいときめきと苦しさを思いのほかの近しさで感じさせてくれた。ちょうど『NANA』の十日ほど前に観たばかりの台湾映画『藍色夏恋』が、ハイティーン少女の捉えどころなく不可思議な心模様をデリカシーに富んだ筆致で綴っていることを僕に感知させてくれ、また、少女に振り回されつつ包み込む少年の心の内には、自分自身の記憶に触れてくる部分があることに気づかせてくれながらも、僕のなかでは、もっぱら遠い日の映画だという印象を新たにさせられるところが強かったのとは、大きな違いだ。この違いの大きさをもたらしたのは、やはり僕にとっての“人間像の息づき”の部分の違いに他ならないような気がする。『NANA』には、僕の感覚にうまく合う形で画面に人間像の息づきが宿っていたからこそ、独白体のナレーションが多用されているにもかかわらず不思議なくらい興醒めを招かなかったのだろうし、決して上手いとは言えない中島美嘉の台詞廻しが、画面を観ている内に次第に気にならなくなったのだろう。

 作り手にデリカシーを湛えた視線があることを僕が改めて意識し確認したのは、奈々の高校時分からの親友である早乙女淳子(能世あんな)に、奈々に対しては章司(平岡祐太)に向ける彼女の愛情の重苦しさを指摘させつつ、章司に対してはそれを承知で付き合っていたはずだとの咎め方をさせていたところだった。確か、奈々には他者への想像力が全て自分の着想に終始した形で生じてしまう鬱陶しさがあるというような意味の台詞で明言させていたような気がする。それまでの奈々と章司の関係の微妙な距離感とか奈々とナナの接近の描き方にも感じていたものが、そこのところで明白になったような気がした。そのうえで、奈々の鬱陶しさには功罪がともにあり、ナナに対しては結果的に非常に有効な形で作用したわけだが、同じものが必ずしもそうは作用しないことをきちんと見せているところがいい。つまり、奈々にはナナと蓮(松田龍平)のような関係は、どんなに憧れようと絶対に結べないことが示されてもいるわけだ。

 殊のほか格好がよかったのは、奈々の思惑に後押しをされるようにしてナナが蓮と再会し、雪国で一緒にバンドを組んでいた当時のように二人でバスタブに浸かりつつ、これからの自分たちの関係の持ちように対して下した結論だった。ここには、やはり『アベック モン マリ』に繋がるものが確かに窺えたような気がする。

 それにしても、気持ちのいい映画だった。奈々の想いを踏みにじることになった章司をも含めて、登場人物の若者たち全員が生きることや人間関係に真面目に向き合っている姿が、過剰に美化されることなく何とも自然に無理なく浮かび上がってきていて、押しつけがましいところが少しもなかったような気がする。なかなかこのようには描けないものだ。


推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0509_1.html
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2005nacinemaindex.html#anchor001333
by ヤマ

'05. 9.18. TOHOシネマズ6



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