『ダーウィンの悪夢』(Darwin's Nightmare)
監督 フーベルト・ザウパー


 ブラッド・ダイヤモンドを観たときに思ったように、ダイヤと殺し合いなら、自分は縁の薄いところで生きていると遠ざけられるけれども、モノが白身魚となると、そうはいかなくなる。その分、大いに都合が悪いのだが、ヴィクトリア湖に放たれた巨大な外来魚ナイルパーチによって生態系が乱れたとかいうことよりも、最近観たばかりの『ブラッド・ダイヤモンド』でもバベルでも偲ばれた“武器”の問題が重たくのしかかってくる作品だったところが立派だったように思う。武器の問題は、環境問題とともに最も照射されるべき現代の重要課題だという気がしているからだ。どちらの問題にも共通しているのは、問題意識を持っている人々の手の及びにくいところで、直接的な経済的利益を莫大な儲けとして手にする連中の存在があり、しかも経済活動としては既に大きな位置を占めていて世界経済への影響度が高く、そのことによって、状況の改善を図るのが極めて困難な状態にあるという点だ。

 そうしてみると、この映画のタイトルとなっている『ダーウィンの悪夢』というのは、すなわち進化の頂点に君臨していると思っている人間という生物の繰り広げる、武器を作り搾取に精出すという“本能の壊れた無軌道な生き様ぶり”を指しているのだろうという気がしてくる。生物の営みというのは、基本的には自らの生存及び自身の種の保存のための活動としたもののはずなのだが、工場で行っている巨大な白身魚の加工作業は、自分たちが食するための労働ではなく、ヨーロッパや日本に住む人々が調理の手間を省いて口にするために行っているものであり、その魚を生産している湖の畔に住む人々の暮らしは、とてつもなく劣悪であることが生々しく捉えられていた。かといって単純にそれらを止めてしまえば事が解決するものではないのは、映画の冒頭に登場した若い黒人女性が従事していた売春稼業と同様で、ある意味、ヴィクトリア湖畔でのナイルパーチ加工業が止められると目前では一層ひどい状況が繰り広げられることになりかねない。しかし、こういった世界経済の状況を放置しておくことは、冒頭に登場した売春婦の死亡を伝えつつ映画が終わったように、アフリカの死を待つようなものだとも言えるエンディングだったような気がする。

 このような作品を観ると、キャピタリズム&マーケット至上主義の敷衍を以てグローバリゼーションなどと嘯くような思い上がりに対しては、ちょうど神から言葉の流通を奪われたバベルのように「流通する通貨」というものが奪われないと、性懲りない人間は、身に沁みたりしないんだろうなとの悲観が湧いてくる。“搾取の構造”が単純ではないのだ。武器を運んだ輸送機で白身魚を運び出しているロシア人パイロットがアフリカを収奪し、利得を得ている白人たちには見えない。むしろ、彼らもまた搾取されている側に見えて、黒人売春婦との間に親和性を交わしている姿のほうにリアリティがあることをフィルムは伝えている。だからこそ、“進化の悪夢”ということになるのだろう。

 しかし、それで言えば、バベル以降「通じる言葉」を奪われても、人間は反省するどころか諍いを繰り返してばかりいるのだから、「通じる貨幣」を奪われたところで、やはり懲りないのかもしれない。

 素材の持つインパクトや重要性に比して、映画作品としての構成や語り口には物足りなさを感じなくもなかったが、それ以上に違和感を覚えたのが、この映画の日本での宣伝のされ方だった。センセーショナリズムに傾けた売りを仕掛けたことで、損なわれたものが随分とあるような気がする。




推薦テクスト:「超兄貴ざんすさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=327833023&owner_id=3722815
by ヤマ

'07. 5.15. 県立美術館ホール



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