『敬愛なるベートーヴェン』(Copying Beethoven)
監督 アニエスカ・ホランド


 『僕を愛したふたつの国/ヨーロッパ ヨーロッパ』('90)もさることながら、オリヴィエ・オリヴィエ('92)で鮮烈な印象を残してくれたアニエスカ・ホランド監督の新作を観るのは、'95年作品の『太陽と月に背いて』以来だから、大いに楽しみにしていた。演技陣の充実に支えられ、堂々たる作品だったが、物語の根本のところで自分のイメージとそぐわないところもあった。

 楽聖とも称されるベートーヴェンの弦楽四重奏曲<大フーガ>については、五年前に聴いた“アルディッティ弦楽四重奏団&高橋アキ(ピアノ) コンサート”での鮮烈な印象があって、ライブ備忘録にベートーヴェン以外は共に20世紀の作曲家の作品で、いかにも現代音楽的な奏法や響きを聴かせるのだが、驚いたのは、それより150年も前のベートーヴェンの曲が、奏法などに現代音楽的なものは一切ないのに、プログラムとして同居していて全く違和感がないことだった。僕自身は、たぶん初めて聴いたはずのこの曲が、つまりは、音の構成として現代音楽と聴きまがうようなものを持っていたということなのだろう。150年の開きを考えるとおそるべしと言うほかない。当時、人々にはどのように受け取られ、評価されたのだろう。と綴ったものだったが、予告編などから第九交響曲の誕生をハイライトとする映画かと思っていた本作は、実は弦楽四重奏曲<大フーガ>にこそ光を当て、そこに至ったベートーヴェン(エド・ハリス)の孤高を描いた作品だったような気がする。

 さればこそ、ベートーヴェン当人以上に彼の音楽というものを理解していて、彼自身が納得せざるを得ない譜面修正すら第九の誕生に際しては施すことのできた女性写譜師アンナ・ホルツ(ダイアン・クルーガー)でさえも、同時代では付いてくることのできない地点に辿り着いていたとするほうが、僕にとっては収まりのいい物語になるように思う。彼女が転調修正を施した楽譜を観て「二十歳過ぎの小娘にどうして私の音楽が…」とベートーヴェンに絶句させ、作曲者以上に第九を解して見事に指揮しおおせたアンナでさえ届かない孤高に至った<大フーガ>とするほうが、若く美しき終生の理解者を得て、難聴という試練を乗り越え、幸福なる生を全うした偏屈者の“汚れ熊”の生涯として描かれるよりも、物語的には僕の好みではある。脚本家から出発したアニエスカ・ホランドは『オリヴィエ・オリヴィエ』の後、『秘密の花園』('93)以降は、本作も含めて脚本を書いていないようだが、『オリヴィエ・オリヴィエ』以前の作品の人間洞察の深さと比すると、本作も『太陽と月に背いて』も佳作ではあるものの、彼女本来の持ち味を生かし切れていないような気がしてならない。

 そんなことを思ったのも、随所にアマデウス('84)を想起させる映画としての作りが施されていたからだという気がする。とりわけ、病床にある作曲家からの口述筆記で譜面に写し取る作業を共にすることで、その偉大なる才能の到達している境地に最初に触れる場面が両作品にあるのが印象深い。サリエリは「こんな常識破りの始まり方…」と冒頭から驚き、アンナは音の始まる以前からキーを指示しない譜面に狼狽えつつ、ともにこれまで耳にしたことのない新しい音楽の誕生に立ち会うなかでの驚きと興奮に包まれていた。そして、ともに史実的な裏付けがあるとは言え、音楽に対するハイレベルで偉大なる才能には似つかわしくないような下品な行状や放言を強調して描き出すところもまた共通していたように思う。
 作り手のこの果敢な意欲に導かれるようにして、ついつい比較させられてしまったわけだが、『アマデウス』に描かれたモーツァルトの奇行や衰弱が、まさしく神から与えられた“天才”というものに引き裂かれた人間の姿に他ならないものとして浮かび上がっていたように感じられたことに比べると、本作でのベートーヴェンの偏屈や障害にはそういった痛ましさが乏しく、実際的な人格や傷病を示しているに留まっていたような気がする。また、音楽というものについて、無音のなかに音を聞こうとするところから神や自然への接近が可能になるといった能書きや、そこから先に進んで外界としての美しき自然から更に人間たる自身の腑に向かう精神の志向性を台詞として言語化していた部分も『アマデウス』と比較すれば少々後れを取ると言わざるを得ないところだ。しかし、映画史上に燦然と輝く傑作『アマデウス』には比肩しきらないからと言って、本作がつまらないわけでは決してない。

 第九の演奏場面における官能的な恍惚感と一体感には、合奏や合唱の持つ本質的な歓喜としての感慨深い境地が確かに宿っていて、観応えも聞き応えもあったように思う。とりわけダイアン・クルーガーの手の振りの所作が柔らかく美しく、二人の距離感が次第に詰められ被さってくる映像には見惚れたし、その他の場面においても、エド・ハリスとダイアン・クルーガーの演技と存在感には、感心しつつも、改めて『アマデウス』がいかに突出した作品であったかとの感慨を覚えずにはいられなかったということだ。

 そして、ちょっと興味深く思ったのが、確か『アマデウス』の公開当時、モーツァルトの音楽をよく知らない人に対して彼のイメージを徒に汚しかねないけしからん作品だということで、モーツァルト愛好者からかなりの非難を浴びていたような記憶があるけれども、本作については、ベートーヴェン愛好者からの抗議の声が集まったというようなことを聞かないという点だ。モーツァルトの奇行やスカトロ趣味は史実でもあるようだから、それを描いても侮辱とは言いがたく、また『アマデウス』という作品をきちんと観れば、いささかも彼を侮辱するような作品ではなかったのに、そのような受け取り方がされたことに少々驚いた覚えがある。それからすれば、史実としての根拠など何らなさそうに思えるアンナによる“第九にまつわる譜面修正のサジェスチョン”のほうが遙かに物議を醸しそうに思えるのだが、ベートーヴェン愛好者からのヒステリックな反応があったというようには聞かないわけで、やはりモーツァルト愛好者よりもベートーヴェン愛好者のほうが大人なんだなと、普段なんとはなしに思っていることが改めて検証されたように感じられた。

 思い掛けなく上映会場で、五年前のコンサートでも出会った友人と久しぶりに遭遇し、珈琲を飲みつつ観たばかりの映画について語り合ったが、そんな話で盛り上がり、あれよあれよという間に午前0時を回っていた。
by ヤマ

'07. 4.27. 県立美術館ホール



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―

<<< インデックスへ戻る >>>