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『オリヴィエ・オリヴィエ』(OLIVIER olivier) | |||||
監督 アグニェシカ・ホランド | |||||
事実の重みというものは、否応のないものだ。しかし、その一方で人には各人にとっての真実というものがあり、その重みには時として事実以上のものがある。事実と真実が完全に一致する人はいないのが人間の宿命だが、そのずれが精神障害に到らないよう、社会適応と自己防衛の両立を果たすべく、人は生きている。自覚しているか無自覚であるかは別にして、そのために人が日々おこなっているのが、事実認識の獲得とおのが真実の確認修整によるバランス調整であったり、自己の再発見であったりするのだと思う。 この作品は、人にとって、事実と真実が一致しないものながら、そこには微妙に絡み合う複雑な緊張関係があるということを、そして、事実の重みと真実の重みが一人の人間のなかで入れ替わったり蘇ったりしていくさまを、類稀なるテンションでスリリングに描き出していて、強烈な印象を残す。 冒頭から、ナディーヌとオリヴィエの姉弟に対して等しく母親であるという事実とオリヴィエだけの母親でありたいという真実を背負っているエリザベトの姿が、容赦のない形で描き出される。母親の真実は即ちナディーヌにとっての事実であり、にもかかわらず、エリザベトに母親を求めずにはいられないのがナディーヌの真実である。 この事実と真実の葛藤が、とびきり緊張感を孕んでスリリングな展開を見せ始めるのが、9歳のとき失踪したオリヴィエを6年後に発見したという警察からの知らせからである。オリヴィエの失踪後、エリザベトとの同居に耐えられなくて一人アフリカに赴任していた夫も帰って来、家族四人が再び共に暮らし始める。 僕には、彼が帰ってきたとき、真っ先に狂おしく愛を囁きながら、妻エリザベトの肉体を求めるシーンが強烈だった。オリヴィエが失踪したとき、半狂乱になったエリザベトと諍いを起こした後で、愛の不在を身にしみて感じさせるような性の交わりを求められ、うんざりしながらも肉欲に抗えず交わった彼の自己嫌悪と脱力感の極みのような表情が焼き付いていただけに観ていて動揺した。人と人との関係には、取り返しのつくこととつかないことがある。あのセックスには、これはオシマイだと思わせる凄みがあった。けれども、だからこそ帰ってきたとき真っ先に愛を囁き、肉体を求めたのかもしれない。失われた愛の真実を事実の再現と繰り返しによって取り戻そうとするために…。だとしたら、そのことは同時に、失われた家族の絆を再び取り戻したいと願う彼の思いの強さと、息子の思いがけない帰還がもたらす可能性への期待の大きさを感じさせる。だからこそ彼にとっては、帰ってきたオリヴィエが本当に息子オリヴィエであるのかどうか、という事実が重要なのである。彼はオリヴィエに問いただそうとするが、エリザベトに制止される。彼女にとっては、オリヴィエが本物なのかどうかという事実は、それほど重要ではない。それよりも、あのオリヴィエが帰ってきたと思える、彼女にとっての真実のほうに遥かに意味があるのだ。目の前の青年は、充分それに応えてくれている。彼女は、むしろ事実の追求を恐れる。 最もデリケートなのは、姉ナディーヌである。彼女は、母親が直感的にオリヴィエを本物だと信じることができたのと同じように、直感的に偽物だと思っている。母親に至福の喜びを与えた、6歳のオリヴィエにもあった盲腸の傷跡について、それがいつ頃のことだったかを確かめても納得しない。むしろ、いつの間に調べたのだろうと疑念を強める。祖母の写真を見せて、父方か母方かを答えさせて正解しても、半分の確率で当たる偶然だという疑念を拭えない。エリザベトが、自分がピアノを好むように、オリヴィエもピアノを弾くのを目撃して確信を強めるのとは、対照的だ。同じ事実ではあっても、二人にとっては正反対の真実をともに補強し、確信させているのである。そのあたりの描写には、非常に高い説得力があり、事実と真実の関係を余すところなく描き出している。 さらに卓抜しているのが、オリヴィエを上手く真似た偽物だと思っているナディーヌが、彼と一夜を伴にした翌朝のエピソードである。ナディーヌは、大好きだった弟によく似ているがゆえに、いわゆる男という意識だけでオリヴィエを観ることができなかったのだが、そのお陰で、父親との関係の傷に根ざした男性不信の桎梏から、思い掛けなくも踏み出すことができたのである。ところが、その幸福感の余韻に浸っているときに、オリヴィエが近所の子供と連れションをしながら戯れ歌を謡っているのを聞く。それは、6年前、彼女が野原で弟と二人だけで遊んでいたときに、よく耳にした歌だった。その瞬間、ナディーヌのなかでオリヴィエは真実としての弟になる。事実としては、祖母の写真や盲腸の傷跡をいささかも凌駕するものではないのに、彼女にとっては核心に触れる事実として真実を揺るがすのである。けれども、真実を劇的に揺るがせるときというのは、まさしくこのようにして訪れるのではないかと思う。人間にとっての事実と真実というものを実に深く見据えている。こういった真実の強固さと脆さをけっしてご都合主義ではなく、確かなリアリティでもって表現し得るのは、見事と言うほかない。 しかも、近親相姦という強烈な仕掛を施すことによって、この事実と真実の葛藤による動揺を観る者にも疑似体験させる。近親相姦というのは古来、人間にとって禁断の果実であり、タブーとされているが、近親相姦を成立させるのは、事実なのか真実なのか。翌朝、戯れ歌を謡うか謡わないかで、前夜のオリヴィエとの行為が事実としては、いかように変わるものでもない。姉弟として育っても実の姉弟でなかったら、近親相姦ではなくて、別々に育ったり、姉弟だとは知らなかったとしても、実の姉弟であれば近親相姦なのか。あるいは実の姉弟であることが判明したときから近親相姦になるのか、意識したときからなるのか。事実で割り切れるほどには、人間にとっての真実は単純ではない。 最終的には、オリヴィエが本当のオリヴィエであったかどうかは、明らかになるのだが、観る側にさまざまな混乱と動揺を引き起こしておいてから、それまでの緊張感とスリリングさとは違う意味での緊迫感とスリリングさで一気に展開していく演出力も瞠目させるものがある。そして観終えた後、最後に浮かび上がってくるのは、事実の重みというものに概ね傾いている獣医の父親といかなる事実にも揺るぐことのない真実の凄みを感じさせる母親、事実と真実の間で揺れ動くナディーヌ、事実と真実の間を哀しく軽やかに渡り歩くオリヴィエといった人間像のもたらすリアリティであった。真実が重みを持つ人間ほど恐く深く、人間の計り難さと人間なればこその存在感をもたらしていたような気がする。 以前観た『僕の愛した二つの国/ヨーロッパ ヨーロッパ』でもそうだったが、アグニエシュカ・ホランド監督は、認識とアイデンティティの問題に徹底してこだわっているように思う。その作品は、ナチス支配下のドイツで生き延びるために、ドイツ人になりすますユダヤ人少年の物語で、ユダヤ人であることを捨てようとすれば、どこまでも捨てていける事実によって、ユダヤ人であることの真実とアイデンティティが揺らいでいく姿が痛烈に描かれていたという記憶がある。 ホランド監督のこういった問題意識の過剰なまでの強烈さと深さの影には、彼女が自身の問題として、そのことに向かわざるを得ない事情があるような気がする。実はその点については、今回ナディーヌという人物像に触れ、ホランド監督はレズビアンではないのかなと思った。 ナディーヌは、まるで弟と父親がいなくなってようやく出番が回ってきたかのように、二人を失った母親エリザベトを支えてきたのだが、超能力に転化するほどのエネルギーを抑圧するしんどさに耐えながらも、それなりの手応えと自負を持てるくらいに母親との関係のなかで確たる位置を築いたはずであった。それなのに、男たちが帰ってくると、あっさりとその位置を奪われてしまう。そのことに傷つきながらも、ある種の諦感を漂わせるナディーヌの姿には、ドキッとさせるものがあったように思う。もしそうであれば、「自己にとっての事実と真実」「タブーの愛」「自己のアイデンティティへの懐疑と模索」といった彼女の作家性を窺わせるテーマへのこだわりに対しても得心がいく。そして、最新作『太陽と月に背いて』が、ヴェルレーヌとランボーの同性愛を描いた物語だというのも頷ける気がする。 推薦テクスト:「A46 -Cinema Review-」より http://www6.plala.or.jp/khx52b/movie/file_a/o0002.html | |||||
by ヤマ '97. 6.17. 県民文化ホール・グリーン | |||||
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