『三月のライオン』(March Comes In Like A Lion)
監督 矢崎 仁司


 象徴的で抽象的な作品でありながら、実に明確にコンセプトが伝わってくる快作である。言葉や論理で表現されると何か白けてしまう大切なことを素直に伝えるためには、この作品の持っているようなスタイルが僕には最も好ましい気がする。一見、感覚的な映像による象徴的な物語の背後に見事な一貫性と必然性を持ったコンセプトが窺われるとき、観ている側は、作り手との間の確かなコミュニケイションと深い共感に浸ることができる。それは、感覚的なものがベースになっているからこそ、ロジックによる覚醒を招かない素直な共感となる。この作品の場合、それは失くしていくもの、壊されていくものへのこだわりとそれを取り戻すことへの呼び掛けである。

 今の東京にこんな場所があったのかと驚き、今にも消えていきそうに思える景色を持つロケーション、郷愁として呼び起こされる昼餉支度の卵焼の匂い、老いた夫婦の慎しく穏やかな庭先での散髪、穏やかに永続する愛情を支えるのが関係性へのテンションの高さだという認識、全編通じて繰り返し出てくる壊されていく建物の姿。それら一切の失われていくもの、壊されていくもののイメージを象徴しているのが、ハルオの失われた記憶である。失くし、壊していくのが時代の必然と見る向きからは、それらへのこだわりなんて甘っちょろいセンチメンタリズムないしは感傷と映りかねない。それを取り戻すのは、大きな抵抗と痛みが伴なうことであり、もはや取り戻せないし、取り戻すべきでもない、仕方のないことだと思っているからである。ハルオの喪失した記憶というのは、単に失われたものというだけでなく、失うことを必然とされるのを拒むとともに、取り戻すことのもたらす痛みをも含めて象徴されているところが重要である。そういう点に着目すれば、アイスこと妹のナツコが兄の記憶の喪失とその回復に対して感じている恐れや不安は、例えば、自然を失い、環境を破壊している人類の感じているそれと同じではないかという気がするし、神やモラルを失い、人格を壊していっている現代人と言ったり、思春期の自身への潔癖さや自己主張を失い、世間知にたけ、誇りを失くしている大人と言うこともできる。ナツコは、ハルオの記憶の回復がアイスとしての自分の生の終焉を意味すると思っている。人類も現代人も大人も同様で、失ったものを取り戻そうとすれば、今の自分を失ってしまうと思っているのである。

 映画は、ナツコのそういった恐れと不安を痛切に描きながら、ハルオの記憶の回復を予感させる。しかもそれが二人の関係の終わりを告げるしかないものとして語られるのに、近親相姦ほどに記憶を取り戻すことで終わっても仕方のない関係とされるものはあるまい。しかし、それでは作品の基本的なコンセプトが壊れてしまう。どのような決着をつけるのだろうと観入っていたら、準備されていたラストは、それでも終わりを告げないなどという消極的なものではなく、記憶の回復によってより自覚的により豊かな広がりを持って新たに始まる関係性の誕生であった。見事という外ない。感心したというような対象化したものではなく、感動と呼べる素晴らしいラストであった。

 シェークスピアから引用されたという『三月のライオン』というタイトルは、「氷の季節から、花の季節への変り目に嵐のような三月がある。」というほどの意味だそうだが、まさに三月のライオンと言うしかないようなハルオの記憶の回復を支持するとき、観客はもはや失くしたものを取り戻そうとすることへの恐れや不安は口にできない。この作品では、孤独の影が常時つきまとっていた氷の季節の後、三月のライオンを経てからは、ソフト・フォーカスの暖かな光が支配的で、孤独の影も消えていた。

by ヤマ

'92. 6.28. シアター・トップス



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