『硫黄島からの手紙』(Letters From Iwo Jima)
監督 クリント・イーストウッド


 第一部父親たちの星条旗を観たときに、「英雄であれ英霊であれ、その美名の下にいかなる悲劇が繰り広げられるのか、そして、その美名自体がいかに意図的に創造された代物で実体のないものなのか、を知ることは、戦場というものの実態を知ることと同様に、非常に意義深いことだと改めて思った。そこのところを静かに訴えているのがこの作品の志に他ならないような気がする。」と綴り、第二部『硫黄島からの手紙』では、このあたりがさらに痛烈に浮かび上がってくる物語になっているのではないかとの予想を立てていたが、想に反して英雄や英霊などという装置についての問題意識にも取り立てて拘らずに、実に淡々と具体的な事実描写を重ねるなかで、戦場と人間というものを造形的に描き出していたように思う。

 志という点では、第一部では画面に映し出されなかった“イギー”の最期が日本軍兵士の尋常ならざる狂気に晒されてのものだったことが痛烈に描かれているのではないだろうかと予想した僕の浅はかさを突くように、日本兵による拷問は敢えて描かず、むしろ擂鉢山の地下要塞に籠もったまま三日間のべつ幕なしに爆撃や砲撃に晒され凄まじい轟音と塵埃のなかで追い詰められたなかにあってなお、負傷した米兵を衛生兵遠藤に手当てさせる西中佐(伊原剛志)の姿が描かれており、それと対をなすように、投降した日本兵の捕虜を無造作に始末する米兵の姿が描かれていたことに驚かされるとともに、少なからぬ感銘を受けた。これ見よがしな自国批判を気取ることなく、アメリカ映画でこのような場面選択がなされることの志の高さには敬服してしまう。今の日本でそのような戦争映画を撮れば、すかさず自虐的歴史観だのと大騒ぎする輩が続出し始めるのは必至で、このアメリカ映画に描かれた、大尉時代に駐米経験のある栗林忠道中将(渡辺謙)が敵国贔屓の頭でっかちな指揮官として部下の士官たちから侮られ敬遠されていたように、攻撃の的にされてしまうような気がしてならない。だから、日本で『硫黄島からの手紙』が歓迎されるは当然にしても、アメリカでも非常に高い評価を受けていると聞き及ぶと、彼我の状況の差に気恥ずかしさを覚えずにはいられないようなところがある。

 第一部を観て綴ったもう一つの予想たる「狂気に至るのもやむなき凄まじさで攻撃に晒されていた日本軍を描き、その戦況下にありながら狂気への道に堕ちることなく誇り高き死に向かっていった魂をも併せ描いているような気がする。善悪を問うことなど到底できない地獄絵としての悲劇を“戦争ではなく戦場に”描き込むことで、戦争を拒む意志を示しているのではないかという予感がある。」との部分は、そう外れてもいなかったが、アメリカがどう日本がどうと言うことの以前に、米兵と日本兵との間にいかに違いがなかったのかということを具体的な事実描写の積み重ねのなかで描き出そうとしていたように感じた。すなわち、取り立てての悪意の存否とは無関係に、兵士というものは、戦場でも内地でも常に“目的のために利用される存在”に他ならないことや家族を残して戦地に赴いている事情において、国情は違えども両国に全く違いがないことに最も力点を置いて描こうとしていたような気がするわけだ。そして、両国の兵士たちに違いがないことを双方がいかに知らされていなかったのかということに対する痛恨が作り手の想いとして宿っていたようにも思う。

 ロサンゼルス・オリンピックの金メダリストでもあった西中佐が手当を施させたオクラホマ出身の米兵の握っていた母親からの手紙を中佐が読むのを聞いて、憲兵から落伍した清水(加瀬亮)が衝撃を受ける場面が重要なのも、かなり理想化した国際人としてのキャラクター造形を施された栗林や西の存在が重要なのも、米兵に捕虜を殺させる場面を設えてあるのも、作り手の志が、先ずはそこにあったからではないかという気がする。

 映画としては、日本軍側から描いたものであればこそ、とりわけ五日しか保たないとされた戦いを三十六日も保たせた苦闘の時間の重みと変化をきちんと描き出してほしく思われたところに不足を感じたし、映画としての格調が『父親たちの星条旗』には及ばないようにも感じられたが、こと志においては、むしろ第一部を凌いでいたような気がする。さればこそ、その志を汲み取るならば、日本に対しても好意的に公平に描いてくれているといったことで『硫黄島からの手紙』のほうを歓迎するのではなく、実際に映画的にもより優れていると思われる『父親たちの星条旗』のほうを高く評価する形で応えることが、日本人である僕らの取るべき態度ではないかと感じた。

 また、最終的には千名に留まったと第一部でクレジットされたような記憶のある日本兵の一人として、最激戦地たる擂鉢山からの生き残りである西郷(二宮和也)を生き延びさせたことについては、いかにも作劇的な構成が透けて見えるといったことから、賛否が分かれそうな気がするが、誰にも言っちゃいけないよと妻花子(裕木奈江)のお腹のなかの子に囁く形で、何としてでも生き延びて帰還することを第一に出征する決意を告げていた彼が内に秘めていた“非国民たる意思”に肯定感を与えた存在としての栗林中将を造形して描いた作品なのだから、僕は、作り手の意志として彼は生き延びさせるべき存在だったように思うし、彼を戦死という形で葬ってしまっては、作り手の造形世界における整合性を損なうことになるような気がする。




推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20061214
推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より
http://www.j-kinema.com/rs200612.htm#ioujima
推薦テクスト:「とめの気ままなお部屋」より
http://www17.plala.or.jp/tomekichip/impression/kansoua3.html#jump15
推薦テクスト: 「マダム・DEEPのシネマサロン」より
http://madamdeep.fc2web.com/Letter_form_Iwo_Jima.htm
推薦テクスト:「Muddy Walkers」より
http://www.muddy-walkers.com/MOVIE/letters_from_iwojima.html





【追記】'23. 7. 2. 『父親たちの星条旗』を再見してすぐにDVD観賞したことによって、同作に出てきた場面の惨劇はこれだったのかと思い当たる場面が何か所もあった。両作合わせて一つの作品なのだなと改めて思った。
 前作では、米軍兵が友軍の誤射によって殺される場面があり、本作では、日米両軍ともに捕虜を惨殺する場面と併せて捕虜の負傷を手当てする場面が両軍ともについて描出されていた。最前線で命を賭して辛酸を舐めた兵士たちに対する敬意が日米分け隔てなく込められていて、両作ともが戦争をわかった気でいる奴はバカだによって貫かれていたように思う。高い格調を湛えた稀有な戦争映画だと改めて感じた。
 ジョン・ブラッドリー衛生兵(ライアン・フィリップ)が重要な位置を占めていた前作には、武器を持たない衛生兵は重要だ、衛生兵一人の命が十二人の生死を左右する、といった趣旨の台詞があったが、それに呼応するかのようにして、日本軍で衛生兵狙いを命じている場面があった。戦場のロジックの代表格としてよく登場する「殺らなきゃ殺られる」というものが、いかに“為にするロジック”であるかを炙り出しているかのようだった。
by ヤマ

'06.12.16. TOHOシネマズ7



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