『三年身籠る』
監督 唯野未歩子


 オフシアター上映会の主催者から、観てもない僕に見所紹介をと頼まれ、漠然とした期待と予想のなかで次のように記したところ、チラシの表の左肩に大きく刷り込まれ、些か気恥ずかしかった。
 「何かの昔話で聞いたことのある想定のようにも思うけれど、三年間身籠ることで夫婦間に何が起こると創造しているのかが一番の注目どころ。
 原作・脚本・監督を一人で担った三十代女性 唯野未歩子に結婚・妊娠・出産の経験があるのかどうかは知らないけれども、女性ならではの視点が盛り込まれているようだ。通常ならあり得ない設定だからこそ描ける場面というのがありそうなところが楽しみだ。妻の側にしても夫の側にしても、何かと心が揺れ動きやすい妊娠期間が三倍になることで、負うリスクも得る成長も大きくなっているはずだ。妊娠期間というのは、赤ん坊が出産に耐えられる状態にまで育まれるのに必要な期間であると同時に、親が親になる準備を整えるためにも必要な期間なのだろう。『三年身籠る』という着想には、必ずやそのような視点があるはずだ。同世代女性の手による映画として、三十代女性にとっては必見の作品だと思う。だが、それ以上に必見なのは、そんな女性をパートナーとしている男たちなのだろう。」


 この期待と予想から言えば、三年という時間の長さと経過というものが充分活かされていたようには思えなかった。そして、「妻の側にしても夫の側にしても、何かと心が揺れ動きやすい妊娠期間が三倍になることで、負うリスクも得る成長も大きくなっているはずだ。」と書いた部分が主題的にもっと中心になるような、フェミニズム色の強い作品かと思っていたのだが、そうでもなかった。
 妊娠期間というものが「赤ん坊が出産に耐えられる状態にまで育まれるのに必要な期間であると同時に、親が親になる準備を整えるためにも必要な期間」として捉えられているのは予想どおりであったが、そういうことを描いている部分よりも、人間関係に対する諦念とでもいうべき温度の低さとと、それを嘆くことなく取り立ててネガティヴにも受け取らずに、むしろ自明の前提としたうえでポジティヴに向かう感覚というものの、妙に落ち着きどころの悪いヘンな感じというものが、何処か冷えた通奏低音のようにして響いていたところが印象深い作品だったような気がする。しかも、そのこと自体は、どうも作り手たる唯野未歩子が意図して描こうとしていたものではなくて、原作・脚本・監督を一人で担ったことで、自身の体質のようなものが図らずも宿り濃厚に現れてきた感じのほうが強く与えられるところが、尚更に妙に落ち着きどころの悪いヘンな感じというものに効果的に働くという、想外の結実を果たしていたような気がした。冬子を演じた中島知子に特にそのあたりがうまく漂っていたように思う。
 だから、作り手と同世代の三十代女性の共感は意外と得にくいのではないかと思ってみたり、或いは反対に、今の三十代女性の感覚というのがこういう低温系なのかと思ってみたりした。末田家の女性たちを見ていると、男の存在感というのは女性たちにとって何なのだろうと自問させられてくる。それこそ“開けられない瓶の蓋を開けてくれる存在”でしかない痛烈さのほうが、女子供ばかりでの墓地での会食場面とともに印象深く、身籠り三年目に入って妹緑子(奥田恵梨華)が付き合っている産科医海クン(塩見三省)の勤める大学病院を出、人里離れた山荘で今時流行のLOHASにて出産に臨もうとしているなかでの徹(西島秀俊)の甲斐甲斐しい主夫ぶりが、言わば、徹・冬子にとってようやく親になる準備の整った最良の状態として現れているはずなのに、ちょうど海が緑子に乞われて施されていた女装と同じく、どこか収まりが悪く、意外なほどに存在感が希薄に感じられた。いささか観念的な田舎暮らし願望だという気がしたが、緑子の台詞にあった「男の人が嫌いなの、海くんは大好きだけど。」という感覚のほうは、唯野未歩子の率直な想いなのかもしれない。
by ヤマ

'06.10.14. 自由民権記念館民権ホール



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