『空中庭園』をめぐる往復書簡編集採録
チネチッタ高知」:お茶屋さん
ヤマ(管理人)


  2006年5月2日10:49

ヤマ(管理人)
 お茶屋さん、こんにちは。
 いやぁ、これいいねぇ、って映画も勿論だけど、お茶屋さんの「かるかん」。例の好評マークつけたら?(笑)

(お茶屋さん)
 おお、そうっすか(*^_^*)。ありがとうございます。

ヤマ(管理人)
 お茶屋さんも「キーワード“思い込み”」に着目してるのに、にんまり。
 “思い込み”がらみのセリフ的なとこで補足するなら、息子の「思い込みは本当のことを見えなくする」というセリフに加えて、絵里子には「思い込んでいれば、いつか叶うのよ」というセリフがあったよね。

(お茶屋さん)
 ああ、そうでしたね! 忘れてた。

ヤマ(管理人)
 あれも妙に引っかかっててね。あの映画、観ようによっては、現実的にはバベルの塔のごとく途方もない願いゆえに、綻びが露呈して叶いようがなくなったことに対して、絵里子の思い込みが、あっちの世界に行っちゃうことで叶えさせたようにも見えなくはないよね。

(お茶屋さん)
 う〜ん、そうですか? バスの中の会話は絵里子の妄想とは思えないので、結局、絵里子の願いは、現実の世界で叶ったということじゃないかなあ。

ヤマ(管理人)
 そう、あのバスの中の会話、効いてるよねー。僕の日誌に誕生日を巡る家族の心遣いさえも備わったハッピーエンディングを用意して、なおかつそこに御都合主義を感じさせないような夫貴史と娘マナの会話を設えていたから、素直にそのように受け取れもすると書いたんは、まさにそういうことやもん。
 ただね、そこんとこに一点の懐疑も浮かばない潔さが僕には欠けててねぇ(苦笑)。

(お茶屋さん)
 彼女があっちの世界へ行きそうな雰囲気は十分にありましたが、寸でのところでバースデイ・コールに救われたと思いました。

ヤマ(管理人)
 それが普通にまっとうだよねー。実際のところは、僕もお茶屋さんと同じくハッピーエンドとして受け止めてたんだけど、最後のワンショットで、ちょっと待てよ?っていう楔を入れられたって感じなんだけどね。

(お茶屋さん)
 これはヤマちゃんの日誌を読んで、「へえ!」とちょっと驚きでした。チューリップは、冒頭で同じテーブルの一輪ざしが 赤い花だったので、うまく対比させている(ラストも赤では芸がない)と思っていました。白であっても葬送のイメージとはちょっと違うような気がするんだけど。
 それで、白のチューリップの花言葉を検索してみたら、「失恋」「新しい恋」などとありました。これなら、どちらにもとれるね。しかし、花言葉ってあてにならんなー(笑)。


-------映画に施されていた仕掛け-------

ヤマ(管理人)
 おぉ、花言葉か、なるほど。
 けど、結局あてにならなかったわけだね(笑)。まぁ、僕の楔説ってのは少数意見っぽいし、僕自身、全面的に組しているわけじゃないんだけど、ほら、あの作品って拙日誌にも綴ったように、どの場面を絵里子の想像と現実だと受け止め分けるかが、観る者によってかなり異なってくるような作り方してるじゃない? マナのテディベアが赤く染まっていたり、洗濯されてかどうか知らないけど、またきれいになって引き出しにしまわれてたりしたってのにしても、両方ともが現実とも見えるし、赤く染まっていたのはイメージなり幻覚とも見えるし…。
 まぁ、どっちにしても、映画の作り自体が仕掛けに満ちている感じってのがあるでしょ。おまけに、ドラマの語り口そのものにユーモアだけには留まらない毒味があって、なんだか素直なハッピーエンドだけを受け取ることを躊躇わせるようなとこがあったしね。

(お茶屋さん)
 なるほどね。こりゃ、懐疑的にならないほうがアホみたいじゃん(笑)。

ヤマ(管理人)
 いや、そうとも言えないカタルシス的浄化が、例の“血の雨”浴びる再生イメージ以降の展開に映画の力として宿っていたでしょ。だから、素直に血の雨ならぬ“浄化シャワー”を浴びれることのほうが小賢しい懐疑をラストで呼び戻されるより、よっぽど感性の軸が本物なんかなってことを改めて思わせるようなとこが、何か手の込んだ“毒”だったような気もしてさぁ(苦笑)。
 観て取っているところが擦れ違っているような人からは脅かされないけど、お茶屋さんの感想と僕の日誌を読み合わせると、余りにも言及しているところが被っているから、強くそこんとこを刺激されちゃったのよね(たは)。
 懐疑的にならないほうがアホみたいじゃないかと返されるだけの弁明を僕がしちゃうのも、つまりは、その手の込んだ“毒”に当てられたことへの言い訳みたいなもんよ(笑)。まさしくそういうとこでつまらぬ懐疑を誘うことのほうが毒であり、仕掛けだったのかもしれず、そんなことにいささかも惑わされぬ潔さってのが、ちょびかっこよかったわけ〜(笑)。

(お茶屋さん)
 うん、われながら惑わされなかった(笑)。
 ほんま、アホかもしれんねー。

ヤマ(管理人)
 だから、そやないって!(笑)
 観て取るべきところを観て取らずにっていうのとは違うもの。

(お茶屋さん)
 マナのテディ・ベアが赤く染まっていたのを思い出せないのが、ちと、困ったところなんですが。私は単純にこれ、ありえんでしょーというのが妄想シーンと思っていました。

ヤマ(管理人)
 そうそう。そうなのよ。
 だから、普通はあり得ない会話を“家族間で隠し事をしない”という極めて人工的で特異なルールを忠実に実行している家族という原作の仕掛けを実に巧妙に、映画のなかの仕掛けとして活かしてたとも見えるわけだよ。


-------血の雨降り注ぐ感動シーン-------

ヤマ(管理人)
 それはそうと、「“人は血まみれで生まれてくる”というセリフが伏線になっていて、文字どおり血まみれで産声をあげる姿」とお茶屋さんが書いてる場面、なかなか感動的やったよね〜。

(お茶屋さん)
 でしたねー。私は、予告編でアジサイに降る血の雨を見て、本当に「ぞっ」とするほど怖かったん ですよー(予告編では「お母さん…、死ねば!」というシーンも、すごく怖かった。)。だから、もう、まったく別のイメージだったので、よけいに感動的でした。血液評論家としたことが、血のイメージを固定化しておったとは(反省)。

ヤマ(管理人)
 イメージの固定化の話は、一輪の白花の件に関する話にも繋がるとこありだねー。
 ところで、ひとつ訊ねたいんだけど、その「お母さん…、死ねば!」は、お茶屋さん的には、絵里子が現実に発した言葉だと受け止めてる? それとも、発したいという内心の想い?

(お茶屋さん)
 これ、物理的にありえんでしょーというのが妄想シーンと思ってたから、この「お母さん…、死ねば!」っていうのは、現実と思ってた。多分、その前後のシーンのつながりから、そう思ったのですが、改めて問われると妄想かもしれんという気がせんでもないです。

ヤマ(管理人)
 これ、'06.5/6のmixi日記のほうにも書いたことだけど、僕らが日誌やかるかんで敢えて言及しているとこって、この「お母さん…、死ねば!」っていうのもそうなんだけど、原作にはないんだよ。ちょっと凄いでしょ? 例の「血だらけで泣きながら生まれてくる」だの、赤い雨も。でもって、例のアイスクリームの話も…。
 なかでも、あの赤い雨の場面は、まさしく産みの苦しみとよく言われますが、生まれる方も相当に苦しい。彼女が本当に生まれるまで、どんなに苦しかったことか。ってお茶屋さんが「かるかん」に書いてることが、端的にイメージ化されてて迫力があったよね。しかもそれが、特に変哲もない「お誕生日、おめでとう」というだけの言葉を電話でもらって、初めて愛されていることを実感するっていうのが何かすごくリアリティがあってね〜(感心)。

(お茶屋さん)
 そうですね。平気そうにしているけど、さと子さんも結構つらかったでしょうね。

ヤマ(管理人)
 そーね、母親に愛されてないと娘が思っているってことは、何を口にするしないに関らず、必ず伝わっちゃうことだからね。しかも、その思い込みに向けては、対処のしようがないっていうのが普通だもんね。

(お茶屋さん)
 私が決めた親子のタブー台詞、「産むんじゃなかった」と「頼みもせんのに(よくも産んだな)」。まあ、言ってしまいがちですよね(笑)。

ヤマ(管理人)
 僕は言ったことないし、言われたこともないなー。

(お茶屋さん)
 それは幸せですね。私は言ったことはあります。言われたことは、もちろん、ない(笑)。

ヤマ(管理人)
 僕的には、なんかドラマのセリフって感じで、あんまり現実感がなかったりして(あは)。ほら、表現的に判りやすいでしょ、セリフとして。だから、よく出てくるんだけどね。
 それはともかく、拙日誌にはちょっと詳しく書いたことだけどね、そこんとこの愛されてる実感に出くわす描写に感銘を受けてたら、最後にあのショットでねー、ゆらされた…(あは)。
 まぁ拙日誌にも綴ったように素直に虚飾に彩られた空中庭園から、簡素で清らかな白い花が普通に食卓を飾るようになったと受け取ればいいんだろうけどねー。

(お茶屋さん)
 それで、いいと思うよー。
 日当たりと幸福度の相関関係を考察していたコウ君も、ミーナ(ソニンちゃん)に「洗濯物が乾くからや」とあっさり言われてたじゃん(笑)。

ヤマ(管理人)
 あいた!(笑)
 いやぁ、迷いなき真っ当さって、それこそ陽の光のようなもんだよねー。それがいいに決まってるわ、確かに。

(お茶屋さん)
 あ、でも、実は私は虚飾に彩られた空中庭園から、簡素で清らかな白い花が普通に食卓を飾るようになったとは思ってないのですね。虚飾に見えた空中庭園が、本物の花を咲かせていた不思議に感銘を受けたのよ。それと、あの白いチューリップは、息子から誕生祝に贈られた花束の中の一輪だから、絵里子は喜びと共に活けたと思ったし、あのショットは翌朝だと思ったので「これから新しく始まる」清々しさを感じました。

ヤマ(管理人)
 “「これから新しく始まる」清々しさ”か、なるほどなー。そのほうが数段いいなぁ。
 かるかんにでもまあ、家族というのはよくしたもので、多少、険悪な雰囲気になったからといって、すぐに崩壊するわけではなさそうですって書いてあったところに通じる部分だね。そうなんよねー、家族力って強いようで脆いもんだし、脆いようで案外強いし、ね。
 でも、このラストのとこで、迷いなくそう書いたうえであの帰りのバスでの父と子どもの遣り取り、よかったな〜。絵里子、愛されてるじゃん。って付言して収まる潔さっていいなぁ。僕もバスの中での父と子どもの遣り取りについて日誌に言及してるんだけど、なんかこう振り返ってみると、着目したキーワードも言及している場面も、ほとんどそっくり被っているにも関らず、この迷いなき潔さと懐疑の差って何なんやろねー(苦笑)。

(お茶屋さん)
 それは、わたくし、恋愛映画は鬼門でも、家族映画なら任せなさいっ、ですから(笑)。
 っていうか、私の頭が単純なせいだと思います。

ヤマ(管理人)
 頭ってことよりゃ心のほうだね、この美点は。どこんとこに着目するかには、頭の作用する面が大きそうだけど、そこんとこは、この作品の場合、僕とお茶屋さんは全く同じって言えるくらいに似通っていたわけだけど、その後の違いってのは、たぶんハートの問題なんだろうね(たは)。
 あまりにも言及部分が被っていただけに、却ってこの大きな違いが気になるというか、ちょっと忸怩たる想いを誘われちゃったよ〜(たは)。

(お茶屋さん)
 コウ君とミーナみたい?(^_^)

ヤマ(管理人)
 ん? やさし〜く、手ほどきしてくれんの?(笑)

(お茶屋さん)
 ちがいます(笑)。コウ君考えすぎ、ミーナ考えなさすぎってことです。

ヤマ(管理人)
 映画のミーナ、いいじゃん。なんか伸び伸びしてて(笑)。原作のミーナには、けっこう屈託があるんだよ。そこんとこは、映画ではもう一人の愛人が一手に負ってたね。
 まぁ、映画だとコウ君もなかなか健気でいいんだけどね。原作のコウは、これまた姉以上の曲者だったりする(笑)。
 でも、そうは言っても、原作のマナとコウには、若い健康感が底流に漂っていて、そのへん映画もちょっと変わった今風の個性をうまく造形しつつ、この“若い健康感”という勘所をきちっと押さえてたから、脚本・監督の豊田は、きちんと原作を読み込んでるよな〜と感心してたんだけどね。
 原作を読んでみると、ずいぶん面白いと思うよ(オススメ)。



[参考:管理人ヤマのmixi日記 '06.5/6 角田光代著『空中庭園』]
 映画に描かれたエピソードの現実と幻想の区分は、原作ではどうなっているのだろうかという興味で読み始めたら、めっぽう面白くて当初の興味とは異なるところで、大いに感心させられた。軽やかな切れ味が気持ちよく、文章にも大いに惹かれた。
 だが、読み終えて最も感銘を受けたのは、この魅力的な原作にインスパイアされて書いた豊田監督の脚本の見事さだった。原作小説に潜んでいた怖さと滑稽さと軽やかさを、よりストレートに打ち出しつつ、原作の毒味とは異なる毒味を自身の作品として創造していることがよくわかった。映画日誌で取り上げた印象深い場面のことごとくが原作にはなかったことに驚くとともに、そこが豊田脚本の創造した部分でありつつ、原作に潜んでいるものを的確に炙り出しているように感じられ、実に感心した。読んでよかった。二重に楽しめた。

by ヤマ(編集採録)


      



ご意見ご感想お待ちしています。 ― ヤマ ―