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『シンデレラマン』(Cinderella Man) | |||||
監督 ロン・ハワード | |||||
圧倒的な不利どころか、生命の危険すら負って夫がリングに立つことの意味が自分たち家族の生活と夫自身の誇りのためだけには留まらないことを知ったメイ(レネー・ゼルウィガー)が、試合前の控え室に夫を訪ね、もう自分は試合に臨むことに反対はしないことを伝え、“私の心のチャンピオン”との言葉を贈る場面で思わず涙してしまった。映画にはありがちな特に変哲もない台詞が僕に不覚のインパクトで迫ってきたのは何故だったのかと思うにそれは、この作品で綴られていたライトヘビー級ボクサー ジェームズ・J・ブラドック(ラッセル・クロウ)のどん底の六年間が、大恐慌による破産とライセンス剥奪による窮乏の落差の激しさとして印象づけられていたからではなかったように思う。それよりは、苦境のなかでとことん誇りが傷つきながらも、決して曇らせることなく保ち続けた彼の誇り高さの程合いに僕が打たれていたからだという気がする。実話の映画化だというこの作品において、ラッセル・クロウが見事な存在感で演じたジムという男の人物像が、仮に実際のブラドックと等身大ではなかったとしても、この映画に綴られた物語でしか彼の存在を知らずにいる僕には違和感の生じる余地がなくて何ら問題にならないどころか、それがお為ごかしの美化ではなくて、作り手の深いリスペクトの発露として伝わってきた。そこのところが値打ちとして感じられる作品だったように思う。 貧困の極みによる支払遅滞で光熱供給を止められ、寒気の厳しさに家族離散の危機に瀕するまでは、負傷したままリングに立つことはあっても、国の緊急経済救済局(と訳出されていたような気がする)の支給する生活保護費を頼らなかったジムが、光熱復旧のための50ドルを何とか工面しようと、生活保護費受給の列に並んで得た30ドルでは足りない分を、自分が追われたボクシング界のプロモーターやマネージャーの集まるサロンで、帽子のなかに金を恵んでくれるよう頼んで回る。誇り高い彼がかつての栄華をよく知る彼らの前にみすぼらしい姿を晒す屈辱さえも選ぶことができたのは、食料がろくに買えなくて長男をサラミソーセージの盗みに追い遣ってしまったことで味わった屈辱のなかで交わした息子との約束だけは決して破るわけにはいかないという“一家の長としての矜持”ゆえだった。また、返済義務のない給付金たる生活保護費を救済局に返しに行く“男の誇り”にしても、ポイント有利で迎えた最終ラウンドであってもいわゆるクレバーな試合運びなどしようとはしない“ファイターとしてのボクサーの誇り”にしても、並外れた彼の誇り高さを示していたように思う。そういう彼が、一旦成功を手にしながら、投機の失敗で破産した挙げ句、まともに家族を養えなくなっている屈辱というものが痛切に描かれていたからこそ、僕は前述の場面に打たれたのだと思う。 女性は得てして、男の誇りだとか沽券だとかいうものに冷ややかだとしたものだが、男がそこのところを一番受け止め、理解してほしいと思うのは、やはり愛する女に対してであるとしたものだ。男同士で、男の誇りだとか沽券だとか言い合って互いを慰めているのは、むしろいささかみっともなく、時として醜悪ですらあったりする。さればこそ、貧者の“希望と誇り”を支えるエネルギーというものを吸収してその身に帯電させていたであろうメイが、それを理解しジムに伝播する触媒として、ハードな試合の直前に彼を訪ねてきたことの意味は大きく、そのときジムの受けた感激を思えばこそ、彼女の発した言葉に僕は心動かされたわけだ。 それにしても、迫真の拳闘シーンだった。『ロッキー』以来かと思うほど、手に汗握りながら、つい体を動かしてしまうほどに引き込まれて観ていた。実話を元にした作品なのだから、再起後に臨んだタイトルマッチで闘ったラスキーとの試合結果が、都合よくジムの勝利に終わる保証はない。仮に試合中に死んだとしても、苦境に挫けず真っ直ぐに人生と戦い続けたことで人々を勇気づけた男の生き様自体は、既に伝説化されるにふさわしい奇跡を果たしていて、この試合の勝敗の行方に左右されるとも思えないものだから、結果を知らないと余計に固唾を呑んで観入らずにはいられなくなるような迫力を湛えていたような気がする。昔は好きだったボクシング観戦を僕が好まなくなったのは、いつの頃からだろう。単に試合がつまらなくなったと言うよりも、殴り合いで力の誇示を図り、人間の肉体を徒にボロボロにさせて稼ぎにする行為そのものが、自分の気に沿わなくなってきていたような気がする。しかし、この映画でジムの見せてくれた誇り高き男の生き様は、僕のそういう思いを吹き飛ばして圧倒的だった。『デイ・アフター・トゥモロー』を観たときに想起したような、ハリウッドの描き続けてきた“クラシカルな男伊達”は、今の現実社会では時代錯誤的なものとされがちなのだが、こういう“内に向かう矜持の充実が造形する人間像”の魅力について、改めて想いを馳せずにはいられなかった。“心のチャンピオン”は、リングのチャンピオン以上に値打ちがあるということだ。そう言えば、邦画の『たそがれ清兵衛』もそういうところを描いた作品だったような気がする。 | |||||
by ヤマ '05. 9.20. TOHOシネマズ1 | |||||
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