『霧の中の風景』(Topio Stin Omichli)
監督 テオ・アンゲロプロス

 『旅芸人の記録』との強烈な出会い以降、『アレクサンダー大王シテール島への船出とアンゲロプロスの作品は公開ごとに欠かさず観てきた。本作『霧の中の風景』を観たのは一年余り前のことになる。象徴性を秘めた詩的な映像の深みのある美しさや繊細さは、一作ごとにより水準の高いものになっている。しかし、その一方で、彼のギリシア史三部作を代表する『旅芸人の記録』において圧倒的であった映画の持つスケールや映像のダイナミズムは、『シテール島~』に始まり、『霧の中~』に終わる新三部作では、次第に影を潜めてきており、それに対する哀惜は、一作ごとに増してきた映像の美しさや繊細さをもってしても拭い難いものがある。後者は他の作家においても味わえるが、前者は余人をもっては替え難いアンゲロプロスならではの卓抜した造形力の結晶だったからである。しかし、そうは言ってもこの作品が第一級のものであることを決して否定するものではない。ただ僕が彼に期待し、こだわるものと少し違っていたということに過ぎない。そして、彼のどの作品にも窺える深いペシミズムが、新三部作の最後を飾るこの作品ではいっそう色濃く厳しいものとなり、その過酷さが見終えた後いささか辛過ぎてあまり好きになれなかったことも併せて記憶している。彼のペシミズムに晒されたのが幼い姉弟だったことがその一因かもしれない。

 『シテール島~』で厳しい孤独に晒されていた老父スピロの息子である中年の映画監督とその妹と同じ名を持つヴーラとアレクサンドロスの姉弟が宛のない父探しの旅に出る。そして、様々な人、様々な出来事と出会っていく。子供の旅を物語の装置とする場合、その多くは大人へのイニシエイションである。しかし、この作品は、イニシエイションと言ってしまうにはあまりに過酷な厳しさと寂しさで貫かれていてほとんど救いがなかったように思う。現代は、突き詰めてみれば、そういう時代なのかもしれないが、仮にそうだったとしても、これほどの厳しさに映像で晒されて耐え切れるだけの強靭さは僕にはない。ラスト・シーンの晴れゆく霧のなかに浮かび出る木とそれを包む光のなかに希望と救いを感じ取るだけの余力が残らないのである。前々作『シテール島~』もまた国際水域に置き去りにされた老父と老母二人だけの厳しい映像で幕を閉じていた。しかし、そこには寄り添う老夫婦の絆があった。『霧の中~』の幼い二人を姉弟の絆だけで支えるのはあまりにつらい。例え、そこに木が現われ、光が二人を包もうとも・・・。

 それにしても、アンゲロプロスの凛凛しいまでの厳しさはどうだろう。歴史を視つめる眼、社会を視つめる眼、人間を、人生を視つめる眼、そして、それらを映像としてフィルムに焼き付ける眼。この眼は、『旅芸人の記録』から『霧の中の風景』に至るまで変わらずに一貫している彼の核のようなものである。いかなる風土、いかなる歴史に生い立てば、人はあのような厳しい凛凛しさを獲得できるのであろうか。凡そ想像さえつかない気がする。巨大なバブルに浮き足立って翻弄され、かつて持っていたことを書籍のなかで窺い知るしか信じられないほどに凛凛しさというものを微塵も持ち合わせなくなってしまった今の日本で暮らす僕が、アンゲロプロスの厳しいペシミズムに晒された幼い姉弟の姿に耐え切れなかったのは当然のことなのかもしれない。むしろ、この作品を観て、厳しさに打ちのめされるのではなく、それ以上に美しさが素直に目に沁み、心に響く感動となるだけの繊細で且つ強靭な感性を持ち合わせる人々が、少なからず日本にも存在するらしいということのほうが驚きであった。




推薦テクスト: 「なんきんさんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1862428719&owner_id=4991935
by ヤマ

'91. 9. 7. 県民文化ホール・グリーン
'90. 6. 1.         有楽シネマ



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