『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』(Monsieur Ibrahim Et Les Fleurs Du Coran)
『モーターサイクル・ダイアリーズ』(The Motorcycle Diaries)
監督 フランソワ・デュペイロン
監督 ウォルター・サレス


 第146回を数える今回の市民映画会の二作品は、共に今から半世紀ばかり前の時代に材を得た映画で、僕にとっては、まだ人の学びの大半が“人との出会いと書物”というものに占められていた時代における両者の関係について、ある種の想いを馳せることを促してくれるような好カップリングのプログラムだった。


 『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』は、コーランを常に身辺から離さず「宗教にはいいのも悪いのもいろいろある」とユダヤ人少年モモ(ピエール・ブーランジェ)に語るイブラヒム爺さん(オマー・シャリフ)の人物像と二人の関係が、とても魅力的な作品だ。

 イスラム教というと厳格な戒律主義の印象が強いのだが、イブラヒム爺さんの属しているスーフィー派というのは、形式主義を排して内面性を重視する神秘主義的な宗派らしい。本の嫌いなモモが、人の心を読めるらしい不思議な爺さんが気になって調べた百科事典にはそう出ていた。ノリのいい音楽とセックスで頭が一杯の16歳の少年モモが「“内面の宗教”?…難しい。」と呟いていたが、かような宗教を長年胸の内に抱いて敬虔に生きてきた人物の滋味とユーモアと囚われのなさが味わい深く、人の生の標を金銭や自己実現といった尺度で測らずに、内なる宗教に求める生の豊かさと美しさに打たれるようなところがあった。

 父親と二人暮らしの男所帯で日々の家事を担っているモモが、ボロ靴で日用品の買出しに来て万引きをしても、咎めるどころか見過ごしてやり、「余所では決してするな、やるときはウチの店にしろよ。」と諭す一方で、金には困っていないと思しき映画女優がロケ撮影の折りに立ち寄って水を買い求めたときには、法外な値をふっかけることで帳尻を合わすのが“公平さ”だと感じているらしいイブラヒム爺さんの感覚の真っ当さに、大いに刺激を受けた。昔の日本の映画などでも同じような感覚の描出を観たことがあるように思うので、イスラムのスーフィー派だけのものというわけではないはずなのだが、こういう真っ当なバランス感覚による公平観というものが、数字や算式が幅を利かす世の中になって、世界規模ですっかり損なわれてきているように思う。形式的公平さによる不公平が横行して歯止めも調整も利かない世の中になっている。とりわけ、庶民の知恵による微調整というものが機能しなくなり、行政制度という極めて形式的で非効率な仕組みに基づいた“福祉”の専権事項のようになったことで、世の中がとても乾燥してきているような気がする。

 イブラヒム爺さんの「相手を見て値段を決める」という商売上のルールが、通常は公正とはされにくいように、モモの身近にいた“コーランの花たち”とも言うべき娼婦たちの存在も通常は是認されにくいものだ。しかし、親からの愛情を得られぬばかりか、結局、幼いときの母親に続き、父親にも置いてきぼりの家出をされてしまったモモにとっては、大袈裟に言えば、その時点での生き甲斐とも言うべき温もりを与えてくれていたのが彼女たちだったように思う。父親の残した本を売って数々の娼婦を漁ることは、あまり感心したことではないのかもしれないが、彼の孤独と絶望を救い、支えてくれた存在だったことは間違いなく、彼女たちがいなければ、モモが荒んだ可能性は否定しきれないように思う。自分に面影すら読み取ってくれなかった実母の出現に凹んでいたモモの気配を、事情を知らずとも的確に察して無償で誘ってくれた娼婦は、父親が忘れていたモモの16歳の誕生日に、自分が幼い頃から小銭を溜めた貯金箱を割りイブラヒムの店で両替をして初めてのセックスの手解きをしてもらった娼婦だったわけだが、ミドルティーンの難しい時期を彼はまさしく『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』に育ててもらったようなものだった。

 「本なんか読む必要はない」と繰り返していたイブラヒム爺さんの本意が、人は人から身を以て人生を学ぶべきであることの強調にあって、書物を軽視していたのではないことは、彼が片時も聖典コーランを身辺から離さなかったことからも明らかで、だからこそモモは、蔵書の充実と読破に勤しむだけで含蓄を備えていない父親の言葉には従わないけれども、イブラヒム爺さんの含蓄豊かな話には難しくとも耳を傾け、自らコーランを読むようにさえなるわけだ。


 『モーターサイクル・ダイアリーズ』で描かれていた、若き日のチェ・ゲバラの半年あまりにも渡る南米大陸縦断の冒険旅行にも同じようなことが言えると思う。23歳の医学生エルネスト・ゲバラ(ガエル・ガルシア・ベルナル)にとって、南米の他国を渡り歩き、様々な人と出会い、恵まれているとは言えない状況のなかで懸命に逞しく生きようとしている姿に触れたことは、彼の人生に大きな影響を与え、その後の革命家への道を準備したようだ。そのことがゲバラ自身の回想としても確かにあったことが、同行した友人アルベルト(ロドリゴ・デ・ラ・セルナ)の証言という形で綴られた物語だったように思う。そして、そこに描かれた若き日のチェ・ゲバラもまた、貧しき冒険旅行の最中にも薄明かりのなかで読書に耽る、大変な読書家であった。彼が内面に蓄えたのは、イブラヒム爺さんのような宗教ではなくて共産主義だったわけだが、彼が書物を糧にしつつも、書物以上に身を以て人から人生を学び取る力を備えた人物であったことが、よく偲ばれる作品だったように思う。

 若き日の文無し旅行というのは実にいいものだ。映画を観終えた後、高校時分に野宿もしながら走った自転車旅行や、大学卒業時に東京から高知まで学友の実家を訪ね継ぎながら帰った原付バイク旅行、学生時分のヨーロッパ・ツァーで時計もカメラも持たない代わりに、独り暮らしのなかで溜まった“永谷園のお茶漬けのり”の付録の浮世絵カードやら五円玉硬貨を幾つも持って街を歩き回ったときのことなどを懐かしく思い出した。若い者の貧しげな旅行姿には、ふと入った食堂のおばさんも、ガソリンスタンドの兄ちゃんも、道路の工事現場のおじさんも、みんな親切にしてくれ、声を掛けてもくれた。それは外国でも同じことで、見知らぬ人々と接し、親切にしてもらったときのことは今だによく覚えているし、その親切は、次の旅する貧しい若者に僕が出会ったときに返さなきゃいけない預かりものだと思っている。だが僕は、親切には出会ったけれども、ゲバラのように人々の苦境を目の当たりにはしなかったし、ゲバラほどには読書家でもなかった。そのせいか内面に、革命を志す共産主義もイブラヒム爺さんのような宗教も蓄えるには至らなかった。それでも何となく、人は人から身を以て人生を学ぶべきであることを教えてもらったようなところがあるからこそ、受けた親切を預かりものだと考えているような気がする。


 モモがイブラヒム爺さんの店を継ぎ、爺さんの言葉を継いだのは、やはりそういうことだったのではなかろうか。一夫多妻が認められているほどに、跡継ぎの息子を得ることが何にも増して人生において為すべき仕事だとされているであろうイスラムで、断腸の思いで諦めていたはずの“息子”というものを思い掛けない形で得て有頂天になっていたイブラヒム爺さんに、モモが16歳のとき自分の将来の夢として語った貿易商よりも、ブルー通りの雑貨店を継ぐことを選んだことが示されていたラストがなかなか素敵だった。

 それはそうと、イブラヒム爺さんの店で水を買い求めた若い映画女優という端役を演じていた女優がイザベル・アジャーニに似てると思っていたら、エンド・クレジットに本人の名が出てきて驚いた。昨年の秋、梅田ガーデンシネマで『イザベル・アジャーニの惑い』を観たとき、実年齢からは考えられない彼女の若さに驚いたものだったが、それよりもさらに若い印象だった。近頃は歳を感じさせない女優がたくさんいるけれども、彼女の場合、尋常ではない。僕よりも、三つも上だとは到底思えなかった。




『イブラヒムおじさんとコーランの花たち』
推薦テクスト:「Camera della Gatta」より
http://www15.plala.or.jp/metze_katze/cinema5.html#ibrahim


『モーターサイクル・ダイアリーズ』
推薦テクスト:「Fifteen Hours」より
http://www7b.biglobe.ne.jp/~fifteen_hours/GUEVARA.html
推薦テクスト:「大倉さんmixi」より
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1860480753&owner_id=1471688
参照テクスト:再見日誌['17]
by ヤマ

'05. 6.24. 文化プラザ・かるぽーと大ホール



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