『クローサー』(Closer)
監督 マイク・ニコルズ


 異性を求めずにはいられない男女四人の物語だが、恋愛というよりもむしろ情欲抜きには生きられない男と女というものについて、その何とも愚かしく身勝手に振舞う姿をいささか誇張して痛烈に描いていた。特に男たちの人物像に投影された愚かしさについては、その誇張と濃縮ゆえにリアルさが乏しくなっているわりには、あまり戯画化されてもいなくて妙に生々しく、観ていた僕は、何だか不愉快な感情と呆れに終始付きまとわれていたような気がする。でも、後から振り返ってみれば、けっこう含蓄のある物語だったようにも思う。

 四人の男女のうち、医師・作家・写真家といった職業に就いているインテリたち三人が揃って囚われていたのは、相手及び自身の“欺き”の問題だった。それに比して、ストリップ・バーの踊り子が問題にしたのは、相手からの自分への“疑い”のみであった。なるほど、表層的な賢さを備えるインテリなればこそ、欺かれる愚かな自分が耐えがたいというのは、ありがちなことだと思う。だから、恋愛においても彼らのなかでは、“欺き”こそが最大の不実と不徳となるし、また熱情にも報復にもなるわけだ。従って、自身に対しても相手に対しても、行為的事実の秘匿と開示の扱い方による“欺き”の存在を、互いの関係における最上位の問題としているように感じた。隠すにしても晒すにしても、彼らが自身の恋愛について語る言葉が、ことごとく行為的事実に偏っていたような印象を残し、感情についてのリアリティを見失っているように見えていたところが興味深い。

 行為的事実に囚われる彼らなれば、恋愛における行為的事実として際立つものが他ならぬセックスであるからこそ、その詳細に執拗に拘るわけだし、同時に彼らのセックスへの囚われ度と囚われ方が、映画でも描かれたようにロマンティシズムを欠いた即物的な情欲性を帯びてくるわけだ。僕が注目したのは、彼らのその“囚われ”が生物的な性欲の強さによるものではなく、むしろ頭でっかちで心が脆弱であることからくる強迫性のように感じさせる部分を的確に捉えていたところだった。三人のなかでも男たち二人のほうにそれが際立っていたのは、こと性にまつわるものなれば、同じく脆弱なるインテリにあっても、男のほうがより脆弱だということであろう。こういったものを一人の人物の個性として造形するのではなく、インテリ男女の属性的傾向として浮き彫りにするために三人の男女を設え、それぞれの個性とバリエーションを際立たせたうえで、その背後に通底するものとして描いていたのだと思う。それには納得だし、感心もしたが、彼らの愚かしさの誇張と描出の仕方はいささかやりすぎで、僕には少々辟易となった面もあったということだ。


 そして、セックスへの囚われ以上に重要なのが、この行為的事実への囚われという形で彼らが囚われていた浮気の問題であった。行為的事実としてのセックスの細部にこだわり明け透けに語り合うインテリ・スタイルが、“欺き”の存否を焦点にして浮気という問題に向かうことの、本末転倒した不毛ぶりが痛烈に浮かび上がってきていたように思う。

 三人のなかでも特にこのインテリ的脆弱さと身勝手さの目立つ“台無し男”であった作家ダン(ジュード・ロウ)を観ていると、写真家アンナ(ジュリア・ロバーツ)に対してもストリッパーのアリス(ナタリー・ポートマン)に対しても、相手との間に生じた疑念と葛藤をぶつけ合うときには、いつも彼女たちと医師ラリー(クライブ・オーウェン)との間の行為的事実にばかり囚われていて、最も重要なはずの自分たちの関係自体について目を向け、振り返り話し合おうとする部分が、皆無だったように思う。人と人との関係は、恋愛であろうがなかろうが、基本的に一対一対応のものであって、第三者の存在によって左右されるべきものではないと僕は思っているのだが、現実的にはなかなかそうも割り切れるものではないとしたものだろう。でも、だからといって、第三者の存在にのみ囚われ、それが最も重要な位置を占めるようになっているのを見ると、明らかに本末転倒していると思わざるをえない。


 “欺き”や“嘘”に囚われる者がこだわりがちな“事実”などにそもそも如何ほどの意味があろうというのが、作り手のメッセージであったように思う。ダンに欺かれて涙しても彼への想いをいささかも止めることのなかったアリスが、自分にダンが“疑い”の目を向けてきたことで瞬時にすっかり熱が冷めてしまうのは、ラリーとの間の行為的事実の如何によるものでもなければ、“欺き”の成否によるものでもなかったはずだ。自分の想いが疑われてしまったことで受けた傷が、相手に欺かれることで受ける傷の何倍も許しがたく耐えがたいものであり、自分の愛情に疑念を向けてくるようであれば、事実の如何によらず、もう終いにしようとする潔さがあったからだろうし、落胆が大きかったのだろう。男が他の女性に手を出すのは、もちろん彼女の好むところではないのだけれども、決定的なことではなかった。だが、自身が疑われることは、二人の間の問題として決定的な侮辱であり屈辱であるということなのだろう。恋愛も含め、人間関係というものは、互いの関係のなかで生じるものによってのみ左右されるべき問題なのだから、これに勝る“終い”にする要件はないというわけだ。問われるべきものは、人の心情における真実であって、行為的事実などに大した意味はないということだろう。

 そのように考えてみれば、確かにこの作品はラリーとアンナにダンが悪質な冗談を“欺き”として仕掛けることで始まった錯綜した情欲物語だったが、ダンが最初に仕掛けた欺きの出会いの背後にあった事実自体は、ラリーとアンナの二人に始まった恋愛にとっては大して意味を持たなかったし、映画の最後で明らかにされたアリスの本名が何で、誰にのみ明かされたものだったのかという事実が、彼ら四人の情欲物語に何らの意味を与えるものではない顛末で終えていたところからも明らかだったように思う。恋愛において大切なのは、さまざまな事実の積み重ねや検証などではなく、それぞれの想いそのものの純度と深さであり、それ以外は全て副次的なものにすぎないというわけだ。至極真っ当な恋愛観だという気がするとともに、何もこんな露悪的なストーリーで語るまでもないことだという気がしなくもない。



参照テクスト:掲示板談義編集採録


推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0505_3.html
推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dfn2005/Review/2005/2005_06_13_3.html
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20050525
推薦テクスト:「my jazz life in Hong Kong」より
http://ivory.ap.teacup.com/8207/146.html
by ヤマ

'05. 5.30. 松竹ピカデリー1



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