美術館春の定期上映会 “イラン映画祭2005”

@『ボイコット』('86) 監督 モフセン・マフマルバフ
A『ホルシッド船長』('87) 監督 ナセール・タグヴァイ
B『チャザベーへの旅』('95) 監督 ラスール・モラゴリプール
C『クスノキの匂い、ジャスミンの香り』('00) 監督 バフマン・ファルマナーラ
D『10話』('02) 監督 アッバス・キアロスタミ
E『低空飛行』('02) 監督 エブラヒム・ハタミキア

 一年ほど前の赤坂・国際交流基金フォーラムでの“イラン映画祭2004”で上映された10作品(「イラン映画を代表する6人の巨匠・未公開作品」6本、「イランの人気娯楽映画」4本)からのセレクション5作品に、一昨年都会で一般公開された『10話』を加え、二日間で3本づつとした高知県立美術館の企画上映会を観てきた。従前に比べ、上映本数が減る一方で料金が値上がりしたところには、小泉政権の三位一体改革という名の地方財政攻撃の影響が露骨に窺えるが、それでも3作品を前売り千円で観られるのだから、まだまだお得感は残っている。これまで春の上映会のチラシには必ず「こんな国の映画も観てみたい!」という定期上映会テーマが示されていたが、今回は「こんなイラン映画見たことない!!」というキャッチコピーに替わっていた。確かにイラン映画ならば、高知県立美術館は'97年に一度イラン映画祭として7作品の特集上映をしており、今更「こんな国の映画も観てみたい!」でもないのかもしれない。そして、確かに「こんなイラン映画見たことない!!」との触れ込みが成る程と思える、日本でのイラン映画の既成イメージに対して楔を打つような新鮮さに富んだ作品群であった。
 イラン映画と言えば、検閲規制があって自由に映画が撮れないことから子供をメインに仕立てることで規制の網をかわそうとした映画づくりや、'79年のイラン革命の後のアメリカを悪魔として敵視するイスラム共和党体制の印象というものが強くあったから、'88年のイラン・イラク戦争停止後の政策大転換に至る前段階で、アメリカ人ノーベル賞作家ヘミングウェイの小説をイランに置き換えて映画化したという『ホルシッド船長』('87)なる作品があったことに驚いたし、監督が自己の監獄体験をもとに映画化したという『ボイコット』('86)のような非常に政治色の濃い作品があったことにも驚かされた。しかも後者は、僕が運営委員の一人として関わっていた高知映画鑑賞会が、ほぼ四半世紀にわたる活動の幕を閉じた2001年に、最終回例会作品として上映したギャベ』『サイクリストのモフセン・マフマルバフ監督の二十代での作品でもあった。
 検閲規制が掛かっているなかで、銃撃戦の果てに囚われ収監された革命家を主人公にした映画を撮っていることにすっかり驚かされたのだが、考えてみれば、映画のなかの革命家たちが標的にしていたのは、まさにイラン革命で倒された王制だったのだし、イラン革命はイスラム革命とも称される宗教色の強いものでコミュニスト革命ではなかったようだから、映画が痛撃していたのが革命組織ながらも、コミュニスト組織だったことで検閲の網に掛からなかったのかもしれない。
 作品タイトルである『ボイコット』というのは、コミュニスト組織の一員であった主人公(マジッド・マジディ)が、政治犯ばかり収容されているらしい監獄のなかで、組織に対する懐疑心を懸念されたことで組織仲間から集団的な疎外を被ることを指しているわけだが、日本のイジメ問題でもよく取り沙汰される“徹底した集団的無視黙殺”によって、精神的に追い詰めることで組織の力を誇示し、組織に逆らうことへの恐怖を思い知らせたうえで限界間際のところで懐柔し、組織目的に叶う形でその命を利用しようとする様が描かれていた。精神が苛まれ、顔を虫が這い回るイメージに脅えている主人公の姿が強烈だった。これは何もコミュニスト組織に限らぬ問題で、人間という政治的存在が組織力を得たうえで建設に向かわず破壊や制裁に組織力を行使する時には、必ずと言ってもいいほど、どこでも発揮されるものだという気がする。イジメ問題の“シカト”然り、JR西日本がやっていたという技術職員の誇りをズタズタにする制裁研修としての“日勤教育”然り、福知山線事故に浮き立って視聴率を稼ぐべく競争に明け暮れる商業マスコミが、イラク人質事件のときに大きく箍をハズしてしまったままに、JR西日本を標的にして連日仕掛けている毎度のような“叩き報道”然りで、とてもじゃないが、二十年前に撮られた遠いイスラム社会の映画として置くことの叶わない作品だった。
 しかし、イラン映画の既成のイメージを揺るがされたということでは、やはり今世紀になってからの二作品『10話』と『低空飛行』が圧倒的だった。

 車を運転する若い女性が息子アミン(アミン・マヘル)、姉、聖廟に向かう老女、夜の街の娼婦、婚約中の友人女性、離婚した友人女性の6人と車中で交わす10の会話シーンだけで構成して一編の作品としたアッバス・キアロスタミ監督の『10話』('02)には、例によって大胆なアイデアで安上がりの映画を撮りつつも、人間観察と捕捉力の確かさで些かも安普請を感じさせない作家としての力量に感心させられた。だが、それ以上に強烈だったのが、これが今のテヘラン社会なのかという衝撃だ。
 日本においては既に伝統的な文化や美意識、価値観は遺跡的残骸を留めるのみといった状況に長らくあるように思うのだが、その善し悪しはともかく、ムスリムさえもが、首都テヘランでは既にかくも解体している現況を窺わせていることに驚いた。家父長制の強靱な男権社会で長老を重んじ、一夫多妻が富と力の証であって家を継ぎ伝えることに重きを置き、自己実現よりも神に帰依し家を守ることを尊重する社会文化の一大勢力としては、もはや最後の砦とも言うべき文化圏という印象のあったムスリムなのだが、この作品では、一人っ子とおぼしきアミンが、離婚し再婚した母親を率直に非難し、自己の“子供としての権利と要求”を堂々と主張する。そして、若き母は母で息子に対し、自身の女としての、また職業人としての自己実現の欲求を明言し、満たされない状況に忍従して自身の幸福追求権を放棄することはできないから、両親の離婚と母の再婚という状況を受け入れるよう要求し主張する。友だちのうちはどこ?』('87)で先生や親といった大人に抗弁できず何も説明できなかったアハマド(ハバク・アハマッドプール)や、十年ぐらい前に観た中東映画祭やらりんご』('98)などで観た、抑圧された女性や子供の姿はどこへ行ってしまったのだろう。
 車のなかで若き女性たちは、信仰を心に抱くことよりも身軽なほうが幸せに生きられると語り、愛なきセックスの是非を語り、必要なものは“セックスとラブとセックス”と語り、男の愛という幻想に縋って生きようとすることの空虚を語る。映画のなかに取り出された10の会話の総てが、口にする者の表情口調とあいまって実にドキュメンタルな現実感に満ちていて、観念論的な印象をいささかも残さない。離婚後、アミンの父親がケーブルTVで夜中に密かに成人番組を観ていることが息子の口から伝えられたりもする。本当に女性がチャドルを身にまとっていなければ、イランの映画だとは俄に信じがたいくらいだった。全く同じ台詞で日本人キャストによる映画にして、何の違和感も生じないと思われるようなイスラム圏の大人映画というものには初めて出くわしたように思った。

 序盤を除き以降のほぼ総てをハイジャックされた機内という室内劇で仕立てたエブラヒム・ハタミキア監督の『低空飛行』('02)は、コミカルな味付けを随所で巧みに施しつつシリアスなメッセージ性にも富んだアクション映画だ。前日に観た『ボイコット』にも派手なカーチェイス・シーンがあって、かなりの娯楽性があったけれど、娯楽性のセンスとして遙かに洗練されてきていることを明らかに感じさせられる堂々たる作品だ。
 どんなに頑張って汗して真面目に働いても一向に生活の将来設計が描けるようにはならないイランの田舎町を脱出すべく、親族総出による出稼ぎと偽って一族を飛行機に乗せ、亡命のためのハイジャックを企てる男の物語だが、数々の登場人物のキャラクター造形が実に鮮やかで、とりわけハイジャック計画を知らされずに乗り込まされた犯人の義母や機長、終始冷静さを保った警備員と暴行を受けて恨みに逆上した警備員との対置などに感心するとともに、この作品の軸になっている、ハイジャックという暴挙に出るしかなかった男と臨月を迎えているその妻との間で次第に浮かび上がる“夫婦としての想いの深さ”には心打たれるものがあった。イラン国内で大ヒットしたというのも道理だ。
 僕が驚いたのは、思い掛けなく亡命に加わることになった男たちが、アメリカへの憧れを悪びれることなく表明してイランを棄てることへの迷いがなく、むしろ喜ぶ姿を露わにするシーンがあったことだ。ここまで自由に映画を撮ることができるようになっているのかとすっかり驚いた。そして、最も心打たれたのは、必ずしも十分に辻褄が合う形で説明されていたとは言い難いハイジャック男の追い込まれた心境というものが、有無を言わせない切実感として映画のなかに確かに宿っていたことだった。事情説明には不足があり、また映画には随所でコミカルな味付けが施されていたにもかかわらず、やむなき切実感というものが宿っていたのは実に大したことだという気がする。しかもなお、映画の序盤で空港ロビーのテレビに 9.11.自爆テロにおいてツインタワーに突っ込む旅客機の姿を映し出していたことで、かの暴挙と言うべきテロに対する作り手の回答として、“この愛すべき哀れで家族想いの男が追い込まれた末にしでかしたような、とんでもなく愚かしい行為の招いた悲劇である”との見解を提示しているようにも感じられた。そして、そのような作りに映画がなっているところに、僕は大いに志を受け取ったのだった。
 そういう意味では、機内での惨事の直接の引き金を最終的に引いたのがハイジャック男ではなく、彼の愛情に打たれた妻であったことが、痛ましくも意味深長なところだという気がする。この作品で、その切なる真情を汲み取られつつも、最も愚かさを突かれていたのは、引き金を引いた妻ではなくて無謀なハイジャックをした夫だったわけだが、これを自爆テロに置き換えると、妻が実行犯で、夫は彼らに命を投げ打たせた者だということになる。夫の愛に打たれ、感動したことでその愛に報い応えようとした妻を愚かしい女だというふうには決して描いていない映画だった。そして、非常事態による不時着を試みる機体の激しい揺れのさなかで臨月の妻が産気づき出産を果たしてしまう顛末は、この作品を単なるハイジャック・アクションの娯楽作だと見て取れば、やりすぎの余分なエピソードのように映るかもしれないが、機体の窓から差し込む光のなかに神々しく力強く浮かび上がる赤ん坊の手のショットのもたらす希望と出発のイメージは、作り手にとって必要不可欠な映像だったのだろうと思わずにはいられなかった。
by ヤマ

'05. 5.4〜5. 県立美術館ホール



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