『Shall We ダンス?』('96)
『シャル・ウィ・ダンス?』(Shall We Dance ?)
監督 周防正行
監督 ピーター・チェルソム


 周防正行監督の『Shall we ダンス?』は、'95年度の私撰ベストテンの日本映画一位にした作品なのだが、僕が最も感心した点は、この映画で社交ダンスを題材にして描き出された日本人の気質と文化の活写ぶりにあったから、それがハリウッド作品としてリメイクされると聞いても、あまり観る気がしていなかった。近頃は少々事情が異なってきているようにも感じるけれど、ほぼ十年前になる公開当時には、ストレートさとの対極という意味での屈折というものが、日本人の気質とか文化の特質としてまだまだ濃厚にあって、特に主人公のような中年世代においては、素直な欲求表現や自己表現ができないのが普通だったように思う。『Shall We ダンス?』は、そんななかで写し取られた登場人物たちの数々の屈折ぶりに宿っている豊かなニュアンスが見事な映画で、それが、時にコミカルに時にしみじみと、味わい深く伝わってくるところに値打ちがある作品だったように思う。だから、ストレートさが身上のようなハリウッド映画には、およそ似つかわしくない気がしていた。

 ところが、ちょうど地上波TVで再見する機会を得、さらにはハリウッド・リメイク版『シャル・ウィ・ダンス?』の思い掛けない好評を幾人もから聞いて、そんなはずは…と、自分の目で確かめてみたくなった。日本版に描かれた“屈折”にこそ、大きな鑑賞ポイントがあった僕にとっては、社交ダンスというものが特に妙な色眼鏡で見られることがなさそうな気のするアメリカを舞台にして、この映画の醍醐味の部分がうまく成立するようには思えなかったわけだ。案の定、ダンス熱のあまり過労で倒れた豊子(渡辺えり子)の娘が、病院に運び込んでくれた教室仲間の前で、母豊子の社交ダンス熱のゆかりについて語る口が滑って「日本人の社交ダンスなんて…」と言い掛け口を噤み謝る台詞がリメイク版で顧みられた様子はなく、杉山正平(役所広司)を含め多くの男が、社交ダンスを始めた本当の動機が異性にあることを堂々とは言いにくく思う日本の場合と比べ、アメリカ版ではチックが女をモノにするためだ、ベッドでのテクを上げるのに役立ちそうだと公言してはばからないし、ヴァーンの語る婚約者を喜ばせるためだとの動機に虚偽はなかった。

 また、岸川舞(草刈民代)が杉山の食事の誘いをはねつけるのみならず、社交ダンスというものにえらく身構え気取った姿勢でいるのも、日本で社交ダンスに向けられがちな色眼鏡を意識して、自分は違うと気負っていると同時に教室の生徒に対しては彼女自身がそういう意味での蔑む視線で臨んでいたからだという気がする。舞のブラックプールでの挫折体験というのも、単純に思い掛けなく失敗したことでの躓きとして描かれるのではなく、「自分は違う」という不遜さと身構えを払拭できない彼女の生き方のぶつかった壁として描かれていたように思う。しかし、そういうシチュエイションを踏襲しにくいハリウッド版でのポリーナ(ジェニファー・ロペス)において、舞のような身構えを性格づけしていないのは当然のことで、失意や落胆は窺えても屈折感は折り込まれていなかった。日本版を観て、舞の身構えや気取りが気に障る向きからすれば、ポリーナのほうが好感を持ちやすいかもしれず、特に同性たる女性からすれば、なおのことなのだろう。

 そういう面からもリメイク版は、ハリウッドの非アクション映画における“ターゲットは女性”というマーケッティングの揺るぎなさが窺える作品だという気がした。オリジナル版の136分を106分に短縮してプログラム・ピクチャー的に整え直していることも含め、実にハリウッド的なストレートな映画に変身していたわけだが、表面的には思いのほか細部までオリジナルの日本版を忠実に踏襲している形になっているのに、テイストは全く異なるという“映画の妙味”のようなところが実に興味深かった。


 オリジナル版で僕が最も好きなシーンは、十年近く前に観た時も今回再見した時も同じで、思い掛けない妻子の大会観戦で気が動転し、大失敗をしてしまった杉山が、家族に社交ダンスをやめると宣言したところ、「やめるんじゃなく、お母さんに教えてあげてよ。」と娘に諫められ、郊外マイホームの狭い夜のベランダで妻と踊りつつ詫びる場面だった。「淋しい思いをさせて済まなかった。」という訥々とした言葉に、涙を溜め、頷くようにして夫の胸のほうへ頭を傾けた昌子(原日出子)のさまが何とも可愛らしくて、素敵だった。映画の序盤での、申し分なく真面目で優等生の夫について娘に「少しは伸び伸びしてくれたほうがお母さんも気が楽なんだけど」などと語るいかにもありがちな平穏ボケぶりとか、浮気かと疑い調べたらダンス教室通いだったことですっかり安心しつつ「自分だけ…ずるい。」と呟く中盤でのさまとあいまって、原日出子が、家の内外で荒波に揉まれることなく専業主婦として中年期を迎えるに至った女性の特質を功罪一体の可愛らしさとして見事に体現していたように思う。

 アメリカ文化の土壌でそのような人物造形を試みると、単に幼稚で愚かな女性像としての印象しか受け取ってもらえない恐れが高いと判断したのかもしれないが、リメイク版の妻ビヴ(スーザン・サランドン)の人物像は、オリジナル版とは随分と異なるものに変わっていた。想像だにできなかったはずの夫の浮気を疑って、二人同じく探偵調査を依頼するにしても、昌子には“怖くて夫に直接質せない臆病さ”のニュアンスが色濃く、ビヴには“疑念に対して事実確認をしようとする積極性”のニュアンスのほうが色濃い印象があったように感じる。そして、嬉しいことに、僕がオリジナル版で最も気に入っていた夫婦でのダンス・シーンは、リメイク版でも最も重視されたようだ。ハイライト・シーンとして、いかにもハリウッド的な派手さでもって装飾されていた。それによってシーンの味わいの質は全くの別物になっていたが、それはそれで鮮やかだったし、舞台をアメリカに移すことでオリジナル版と異なってくる違いというものを鮮烈に印象づける巧みさにも繋がっていたように思う。

 また、ジョン・クラーク(リチャード・ギア)の人物像もオリジナル版からは重要な点が改変されていて、杉山正平に際立って特徴的だった二つの特質のうち“生真面目さ”のみが踏襲されて“内気さ”が影を潜めていたような気がする。僕には社交ダンスの経験がないけれども、その醍醐味が異性と身体を密着させて音楽に身を委ねる心地よさにあるだろうことは、容易に察しがつく。それを楽しむ心根が格別いやらしいものでも、気持ちの悪いものだとは僕には思えないけれども、十年前の日本では得てしてそのように形容されがちなものだったとは思う。だからこそ、決まり文句のように“健康のため”という理由を取り立てて用意してしまうような屈折が働くわけだが、杉山が通勤電車の窓越しに舞を見初めて始めた社交ダンスであって、念願であったはずの彼女とのダンスの機会を得、その脚の間にぐっと大股で割り込んで最初の踏み出しを行うよう彼女自身から指導されても、なかなかそうはできずに「遠慮しない!」と繰り返し叱られるのが杉山のキャラクターの味でもあった。だが、そういう煮え切らなさをジョン・クラークから取り除きつつ、外形的には意外なまでに日本版に忠実なシーンのなぞり方をしている部分が多いので、リメイク版では、人物像とシーンや展開との間で、ちょっと不具合を感じる部分もあったように思う。


 この、十年前の日本では、社交ダンスという趣味に対する一般的な形容として、すぐに“いやらしい”とか“気持ち悪い”といった反応が出がちな状況であったことが、日本版『Shall we ダンス?』での重要なモチーフだったような気がしてならない。そして「確かに故なきことではないものの、蔑まれることは明らかに不当だ」という異議申し立てが、蔑みというもの自体への作り手の立場として強調されていたように思う。それどころか、この作品には異議申し立てに留まらない作り手の鋭い指摘が、日本人の気質と文化の問題として鮮やかに掬い取られているように感じたものだった。社交ダンスへの蔑みの言葉と視線の背後には、むしろ羨望が透けて見える部分があるからこそ、屈折して蔑みとして現れてくるところがあることを感受しているであろう作り手の姿を受け取って、快哉を覚えた記憶がある。この不当な蔑みというものへの思いの強さは、監督脚本を担った周防正行が成人映画を仕事の現場としていた経験によっても強化されていると思われるのだが、それゆえに、社交ダンスというものへの視線としてだけ提起するのではなく、青木の踊り方や田中の汗かき体質が女性からの「気持ち悪い」という言葉を投げつけられることで深いダメージを負ってしまう姿を、コミカルな味付けのなかではその調子を壊しかねないような演出を加えてまでも、敢えて強調した形で描いたのだろう。そこに今度はまた、作り手の“屈折”もが透けて見えなくはないような気がする。

 ところが、驚くほど忠実に日本版を踏襲しつつ、実にハリウッド的な映画に見事に変身させていたリメイク版では、“いやらしい”とか“気持ち悪い”といったニュアンスは、映画から巧みに排除され、台詞としても割愛されていた。そして、“心を開くこと”“仲間を持つこと”の大切さを謳いあげることを踏襲しつつも、その仲間の第一がパートナーであることを日本版以上に強調するとともに、情感的な余韻からも複雑さを取り除いていた。そして、すっきりしたシンプルさというハリウッド・スタイルに映画の味わいを変えていた。

 リメイク版のこのすっきり感のほうを好むのは、たぶん若者や女性に多いのだろうなと思いつつ、日本人気質と文化の屈折を噛みしめる日本版のほうを未だに断然支持しないではいられない自分には、少々苦笑を禁じ得ないところだ。もっとも、中年サラリーマンやチビ・デブ・ハゲという“モテない男たちの代表”として設定された、真面目で内気な杉山・お調子者の服部・自信がなく気弱な田中・明暗の落差の激しい青木だったから、そこに哀感の伴った共感と慰めを誘う味わいが僕のなかに湧いてくるわけで、そのうえで“仲間を持つことの素晴らしさ”や“社交ダンスの侮りがたい魅力”というものをうまく伝える作品になっていたのだから、僕が日本版のほうを支持するのは当然と言えば当然の帰結だという気もする。彼らにジョン・クラークがスマートにこなすようなエスコート文化が備わっていたら、杉山の内気も田中の自信のない気弱さも見込めなくなるわけで、日本版の味わいは成立する余地がなくなる。だから、本当のところは、少し無理な人物造形を強いられたリメイク版だったわけだが、すっきりシンプルなテイストに割愛していくなかで、踊りそのものの視覚的幻惑のほうへ誘う巧みな意匠を施すことで、人物造形への引っ掛かりを相対化させる工夫がされているところなど、なかなか上手いリメイクだとは思った。



推薦テクスト:「my jazz life in Hong Kong」より
http://ivory.ap.teacup.com/8207/93.html
推薦テクスト:「ケイケイの映画日記」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20050504
推薦テクスト:「La Dolce vita」より
http://gloriaxxx.exblog.jp/1715705/
推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より
http://www.j-kinema.com/rs200505.htm#shall-we-dance
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました」より
http://yamasita-tyouba.sakura.ne.jp/cinemaindex/2005sicinemaindex.html#anchor001274
by ヤマ

'05. 5. 6. 地上波TV
'05. 5. 8. TOHOシネマズ4



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