第11回高知アジア映画祭“素顔のイランの子供たち”


『りんご』 監督 サミラ・マフマルバフ
『7本のキャンドル』 監督 アボルファズル・ジャリリ
『かさぶた』 監督 アボルファズル・ジャリリ
 イランの映画の総てがこういった作品ばかりではない。これまでにも10本以上のイラン映画を観てきて、そのことはよく判っているつもりだ。そのうえでイラン映画の一つの芸風として脈脈と息づいている独特のスタイルがあることを再認識した。それは、社会的な問題意識や伝えるべき事実に向けられた眼差しといったものを感じさせるドキュメンタリーでも、虚構の物語性のなかに人間や人生の真実を浮かび上がらせる劇映画でもない。事実と虚構に映画撮影というファクターまで取り込んで、それらが渾然一体となって新たな現実を生み出すというスタイルであり、キアロスタミ監督の『友だちのうちはどこ』との鮮烈な出会いによって刻み込まれたものだ。イラン映画の一つの潮流であるスタイルについて、これまで“ドキュメンタリーと劇映画の境界を越えた”というクロスオーバー的なイメージで捉えていた部分に、今回改めて特徴的なものとして強く意識づけられる視点を僕に与えてくれたのは、ジャリリ監督であった。アッバス・キアロスタミ監督にしてもアボルファズル・ジャリリ監督にしてもサミラ・マフマルバフ監督にしても、彼らが映画を撮るときに最重視しているのは、フィルムのなかに切り取られた人物たちの“活写”であって、それ以上の何物でもないのだ。
 殊にジャリリ監督においては、それさえ果たせれば、いわゆる劇映画的展開の連続性や台詞あるいはシーンの繋がりにおけるロジックや関係性などを説明したり描写したりすることの必要性やフィルムに写ったものの意味についてあまり頓着しないし、いわゆるドキュメンタリー映画とされるものにおいて馴染みの深い問題提起といったものも、ほとんどなされない。『かさぶた』のような素材と場を得ながらも、ほとんど問題提起と言えるような問題提起をあらわにせずに、ひたすら少年たちの活写に努めている。その活写のためにはドキュメントな臨場感よりも映像的構築の効果に工夫を凝らすといったことに精力を注ぎ、写し取られたものへの説明や意味については、それが活写のために必要な“光景”として撮られたという以上のものを持っていない。これは映画の撮り方として、驚くべきことだと思う。『7本のキャンドル』は、『かさぶた』より随分と洗練された作品ではあるが、基本的にはこのことが踏襲されている。さまざまな治療施術の場に辿り着くうえで、どのようなやり取りや出来事が起こっていったのかなどという物語は綴られない。さまざまな治療法に晒されながら、まばたき一つしない妹バルトの姿がひたすら映し出され、その時々の兄シュワンの顔が、さまざまな色合いを帯びたものとして淡々と捉えられている。最後ですら、奇跡的に快方に向かう予感を与えられながらも、通常の劇映画の持つドラマ的高揚などには何の関心も寄せられていない。
 『りんご』もまた驚くべき作品だ。よくこんな映画ができたものだと感心してしまう。監禁という児童虐待で告発された父親が自分たちと娘の物語を実際の家族によって演じた映画なのだ。こんなことがどうして起こり得るのだろう。弁明のための出演とかギャラに釣られてとかいった我々日本人でも理解可能な動機とは明らかに異なる文化的パラダイムの違いといったものを印象づけられた。娘を危険には晒せないと生まれてこの方一歩も外出させないことにしても、そういう自宅監禁の報いとして父親が自宅に閉め込まれ、金鋸でドアの格子を切って脱出することを福祉事務所の職員に科せられたり、その執行が一職員の思い付きで決定されたりすることにしても、そんな事件の顛末を描く映画に当事者たちが出演し自身の役を演ずることにしても、およそ我々現代の日本人が持っている文化や習慣、常識からは考えられない世界だ。だからこそ、本人たちの出演がこれほどに衝撃的で効果的だった映画は初めて観たような気がする。出演に限らずモデルとなった実在の人物たちが制作された映画に何らかの形で関わることは、決して珍しくもないのだが、あの家族のキャラクターと存在感には、職業俳優の手に委ねると得られないだけの強烈さがあった。それとともに、ビデオで捉えられた福祉事務所での双子の娘マスメとザーラの社会性の遅れを感じさせた人格形成というものが、映画のなかで演出された自らを演じる過程において、急速にその遅れを取り戻しつつあることを感じさせて強烈だった。そういう意味では確かに“奇蹟のメルヘン”と言えるのかもしれない。
by ヤマ

'99. 7.17〜18. 県立美術館ホール



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