『アイズ・ワイド・シャット』(Eyes Wide Shut)
監督 スタンリー・キューブリック


 アーサー・シュニッツラーの原作『夢小説』は、もう何年も前に読んだことがあったのをすっかり忘れていた。聞くところによると原作にかなり忠実だそうだ。1925年の原作に忠実であれば、主人公の二人にいささか古風な倫理感が窺えることも判らないではないという気がする。

 観終えてみると、宣伝された性的な妄想や嫉妬心という観点よりも、無自覚に抱いていた確信ないしは現実認識を突如揺るがされたことによる動揺のもたらす不安と狼狽といったものが印象深かった。僕自身が極最近に見舞われた、そういう意味では同質とも言える体験のことが想起されたのだ。

 妻(ニコール・キッドマン)が「自信家ね」と揶揄する台詞にあったように、美しい妻を娶り、ステイタスにも収入にも恵まれた職業に就き、それなりの自己実現を果たしてきた夫(トム・クルーズ) にとって、妻から聞かされた架空の浮気の幻想は、嫉妬心を触発される以上に、九年間も連れ添いながら思いも掛けなかった面だった点に衝撃があったような気がする。「女は安定と安心を求めるだけだと思ってるんでしょうけど」と挑発する妻自身、自分がそうであることを誰よりも自覚していて、その一方でそれが満たされれば満たされるほどに、それとは矛盾する願望が生じてきていることを訴えたかったのだと思う。その底には、「頭が良くて、いつも正しい貴方は確かに安定と安心を与えてくれているけど、言わば安定と安心しか与えてくれていないのよ」という不満があったのだろう。もっと言えば、「私は貴方にとって何なの、美しいからセックスをしたくなるというだけの存在なの?」とか「この世の中は何から何まで貴方の思うとおりではないのよ」という思いがあったかもしれない。

 一方、鳩が豆鉄砲を食らったように思いも掛けなかった告白をされた夫は、その直後に女というものが埒外の振る舞いをする現実を病死した患者の娘から突然迫られることで体験し、妻の幻想が俄に現実感を帯びてきて、それに捉われ始める。今まで自分に見えていた妻とは違う妻のイメージにどう向き合えばいいのか解らなくなり、家にも帰れなくなって夜の街をさすらう。誘われるままに娼婦の部屋に立ち寄ったのも、旧友のジャズメンを訪ねたのも、そこで聞かされた怪しげなパーティに行くことにしたのも、そうしたかったからというよりも妻のもとに帰れない気分だったからであり、そこにけっこうリアリティが感じられた。妻との関係で状況が掴めなくなって動揺し不安に見舞われ始めた夫が、秘密のパーティに潜入したことで、更に新たに自分の置かれている状況が掴めない混乱へと追い込まれる羽目になる。彼のようなタイプの男が、そういう状況に置かれることに実に弱く、悪循環を招くように消耗していく様子が、それに対する足掻きとともに描かれ、不安や焦りに加えてスリリングな恐さをリアルに感じさせて、なかなか見事である。自信家と揶揄される男も、思い掛けないところを揺らされるとたわいなく脆いものであることを描いて実に説得力があった。

 結末は案外に平凡である。夫と妻が互いにそれまで知らなかった相手の一面を、それぞれが覗いてきた世界を語り合うことでショックを受けながらも、新たな出会いとして確かめ合う。そして、そのことによって関係性の再生を予感させるのだ。妻の覗いた幻想と願望による性的妄想の世界、夫の覗いた妄想的な性の現実の世界。二人が涙を流して語り合い、実際には婚外セックスもしないままに終わった形の冒険を共有することで関係性の修復ないしは回復へと向かうところは、もっともらしくはあっても物語としては今一つ線が細いように思う。でも、平凡な結末のなかに一抹の不安を忍び込ませることを忘れない点は、さすがにキューブリックだと思った。

 それにしても、ニコール・キッドマンからあの視線を引き出しただけでもキューブリックはただ者ではない。また、秘密のパーティのほうは仰々しくも妖しく、壮麗に描きはしても、裸体や性行為そのものを映しているのに殆ど官能性を漂わせず、他方で冒頭のダンスシーンでは裸体も性行為も映さずに危ない官能性を濃密に漂わせたりする。その天邪鬼ぶりが、いかにもという気がして興味深かった。

 ただ僕としては、夫が妻の告白に捉われるとすれば、彼のキャラクターなら、映画で表現された見知らぬ下士官と妻の性行為のイメージよりも、妻が何故あえて自分にそのことを言葉にして表現してきたのかということのほうではないのかという気がする。そこにどんな思いと意図があるのかを探りたくなると思う。ちょうど秘密パーティに自分が関わったことで起こった状況を探ろうとするように。また、妻に仮面の存在を知られたのをきっかけに一夜の秘密の出来事をいとも簡単に自ら語り始めたのも少し唐突な気がした。




参照テクスト:掲示板『間借り人の部屋に、ようこそ』過去ログ編集採録
by ヤマ

'99. 8. 5. 松竹ピカデリー2



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