『氷の国のノイ』(Noi Albinoi)
監督 ダーグル・カウリ


 アイスランド映画などというのは滅多に観る機会がない。これまでには、フリドリクソン監督のいくつかの作品と五年ほど前の北欧映画祭で僅かに観た作品がある程度だ。アイスランドは、国全体の人口が僕の住んでいる高知市よりも少ない氷の国だとのこと。それだけ人口が少なくては、産業らしき産業もろくにないであろうと、厳しい自然を想起するまでもなく容易に推察できる。ましてやノイ(トーマス・レマルキス)が住んでいるのは、そのなかでも小さな町のようだから、イーリス(エリン・ハンスドッティル)が「一緒に逃げようか?」などと言い出したりするのも、洋の東西を問わず、田舎で暮らす若者にありがちな志と鬱屈の青春恋愛ものとしての普遍的なパターンだ。そんな高を括りつつ、観慣れない“氷の国”の景色とけっして豊かではない暮らしのシンプルな家財での生活様式を目で楽しんだり、学校に遅れるよと声を掛けても反応に乏しい孫ノイを叱るでもなく、いきなり目覚まし代わりにライフルをぶっ放すノイの祖母リナ(アンナ・フリズリクスドッティル)や酔ってピアノを弾きながら「こいつには魂が入ってない!」などと喚いて、斧で楽器を叩き壊すノイの父親キッディ(スロストゥル・レオ・グンナルソン)、カラーボール・ビンゴに興じては、売り物のはずのヌードグラビアの雑誌を高校生のノイに巻き上げられている本屋の親父オスカルなどの風変わりなキャラによる“オフ・ビートな笑い”を楽しんでいた。また、青味掛かった緑色を基調にしているように感じられるカラートーンが新鮮な魅力で、僕の目はいっぺんで惹きつけられたという感じだった。

 そして、自然は猛烈に厳しそうなのに、何とも緊張感のない田舎の日常が綴られるアンバランスな感じがまた絶妙だ。ノイが学校をさぼってトラブルばかり起こしていても大して問題にならない締まりのなさと同様に、いよいよ退学やむなしに至る事情と経緯の締まりのなさも呆れるばかりなのだが、そんな締まりのなさが最も前面に出てくるのが祖母リナのライフルを拝借してノイが銀行を襲撃するエピソードだ。何とも締まりのない冴えなさに、いささか失笑を禁じ得ない。それでもこのあたりまでは、登場人物たちのある種の変哲さと青春映画としての変哲のなさを程良く楽しんでいたわけだが、思いがけなくも青春映画としての変哲のなさと訣別するような展開を見せたことに驚いた。振り返ってみると、ふとキェシロフスキ監督のトリコロール/赤の愛を想起したのだが、そんな映画になるとは思いも掛けなかった意外性に魅せられたというわけだ。

 それとともに、そうなってくると矢庭に劇中で本屋の親父オスカルがノイに聞こえるように読み上げて、「なんだ、こりゃ」とゴミ箱に捨てようとした本のキルケゴールの言葉というのが気になり始めてきた。結婚だろうが、首括りだろうが、考えた末に、それをしてもしなくても、どっちにしても人がするのが“後悔”だというような言葉だったと思う。することとしないこととを同時には選べない人間の宿命というものと、逃した側のものに囚われやすい人の性というものを指摘した言葉なのだろう。さすれば、思いも掛けなかったはずの形で独り残ったノイの抱えた“後悔”は何だったのだろう。僕にとっては、それが何だったかを具体的にイメージさせてくれるだけの触発力を映画が持っていなかったように感じられたのが少々不満だったが、少なくとも“後悔”を抱えたようには感じさせてくれた。した後悔なのか、しなかった後悔なのか、ノイの胸の内に僕の手が届かなかったのが残念だ。




推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2004/2004_06_28_3.html
by ヤマ

'04. 9.26. 九条シネ・ヌーヴォ



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